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更新日:2015年6月1日

真田三代の郷

真田氏の歴史

 

真田氏の歴史

幸隆時代

真田氏は現在の上田市真田地域を本拠地とする地方豪族でした。真田幸隆の時、甲斐(山梨県)から信濃(長野県)に進出してきた武田信玄の家臣となり、信玄が攻め落とせなかった砥石城を真田軍だけで攻略しました。幸隆はその後も「川中島の合戦」などで活躍し、真田氏発展のもととなりました。幸隆の後、長男の信綱、次男の昌輝が「長篠の合戦」(1575)で戦死したため、三男の昌幸が真田家を継ぐこととなりました。

昌幸時代

昌幸は武田家が滅びると織田家、北条家、徳川家と頼る大名をかえながら領地を守り、その間に千曲川にある尼が淵のがけの上に上田城を築城しました。(1583)

その後、天正13年(1585)8月、「第一次上田合戦」では、7000人余の徳川軍を2000人足らずの兵で打ち負かし、真田氏と上田城の名を天下に広く知らしめることとなりました。そして慶長5年(1600)9月、関ヶ原合戦の前哨戦ともいえる「第二次上田合戦」が勃発。西軍(石田方)についた昌幸とその次男・幸村(信繁)は上田城にたてこもり、徳川秀忠率いる3万8000人の兵をわずか2500人の真田軍で戦い、またしても徳川軍に大きな打撃を与えました。

ところが、関が原では東軍(徳川方)が勝利したため、敵対した昌幸・幸村(信繁)父子は、紀州(現在の和歌山県)の九度山に流罪となり、上田城も壊されてしまいました。一方、父弟と相分かれて徳川方についた昌幸の長男・信之は、上田をまかされたものの、上田城を建てなおすことは許されず、現在の上田高等学校の場所に屋敷をつくり、上田の地を治めることになりました。

幸村(信繁)と大坂の陣

その後、徳川家康は天下統一を確実なものとするべく、豊臣家の居城である大坂城を二度攻めます。一回目は「大坂冬の陣」です。幸村(信繁)は豊臣方に味方するために九度山を抜け出し、大坂城に入城しました。そして、城の一番外側に「真田丸」という砦をつくり、攻めてきた徳川軍を撃退しました。
二回目はその翌年、「大坂夏の陣」です。幸村(信繁)は赤備えの真田軍を率いて徳川本陣へ突撃し、家康をあと一歩のところまで追いつめますが、戦死してしまいます。豊臣家は滅びましたが、幸村(信繁)の活躍がすばらしいものだったので、敵からも「真田 日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と讃えられました。

真田氏のその後

一方で、父・昌幸に代わり上田をおさめていた信之ですが、元和8年(1622)に江戸幕府より松代(長野市)への国替えを命じられます。そこで信之に続き真田氏は、松代藩主として代をかえて明治維新までつとめました。また幸村(信繁)の子どもたちは、それぞれ養子に迎えられたり、お嫁にいったりしました。
厳しい戦国の世にありながら、信濃の地方豪族からついには大名にまでのぼりつめ、天下にその名をとどろかせた真田一族。幸隆にはじまり、昌幸、信之、幸村(信繁)、その活躍は、今もなお大変な人気があります。

 

上田原合戦

上田原の戦い(1548)

小県(現在の上田市、東御市周辺)に侵攻を開始した武田信玄と北信濃の雄、村上義清の戦い。この戦いにより武田方、村上方両軍とも大きな痛手を受け、武田方は信玄の右腕ともいうべき板垣信方を喪いました。現在、上田原の地には上田原古戦場碑や板垣信方の墓など当時をしのぶ戦の名残りが点在しています。

 

砥石城

砥石城

武田信玄が上田原の戦いの敗北後再び村上義清を討つべく攻め込み、またしても大敗北を喫した「砥石崩れ」の舞台。翌年、真田幸隆がその攻略に成功。この活躍により幸隆は真田の地を奪還し、ここを拠点に勢力をのばしていきました。

 

信綱寺

信綱寺

信綱寺創建は室町期で、その後真田昌幸が長兄、信綱の位牌所としました。真田信綱夫妻、昌輝の墓があります。

 

 

上田城

上田城

上田城天正11年(1583年)真田昌幸が築城した平城で、徳川の軍勢を二度撃退した歴戦の名城として知られています。現在は公園として整備されています。

 




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