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塩田と別所温泉の歴史

印刷用ページを表示する 掲載日:2020年5月11日更新

 別所温泉(べっしょおんせん)は、戦国の名将真田幸村の隠し湯があったと言われている1500年以上続く名湯です。

 日本武尊が東征の際に、保福寺峠で出会った老人に「この山中に七つの湯が湧き出て、人々の七つの苦を助ける」と教えられ、山中を探してみると、七つの湯が見つかりました。そこで、東征の兵士たちが、この湯につかり疲れを癒すことができたことから、この湯を「七苦離(ななくり)の湯」と名付けられ、その後、この湯が永く栄えるようにと「七久里(ななくり)の湯」となったと言われています。

 大和時代には、塩田(しおだ)の地に朝廷の命で九州の阿蘇氏が国造(くにのみやつこ=知事)として派遣され、この地が科野国(しなののくに=信濃国の古名)の政治・文化の中心地になったと考えられます。それは、この地に数多くの安曽(あそ)と称する地名が残っていることや、一族の小子部氏(ちいさこべし)の名が小県(ちいさがた・小子部の県(=皇室の直轄領))として残っていること、また、生島足島神社(万物を生成する生島神と万物を満ち足らしめる足島神=天皇が皇居で拝礼されている23柱のうちの2柱)(=国造が宮中から奉斎したと考えられる)が現存していることなどから推定できます。

 平安時代の終わりには、平家討伐のため、源義仲(=木曽義仲)が木曽で兵を挙げ、依田城を拠点にして、上洛の機会をうかがっていました。そして、千曲川沿いに下り、北陸道を通って京都に向かいました。このころ、しばしば訪れていたのが七久里の湯です。

国宝安楽寺八角三重塔の画像
 国宝安楽寺八角三重塔

 鎌倉時代に入ると、幕府の連署(副総理格)だった北条義政が突如隠居し、塩田の地に居を構えたため、この地は60年あまりに渡り、栄華を極めました。

 比叡山延暦寺座主・円仁慈覚大師が七久里に開いた崇福山安楽寺、金剛山常楽寺、北向山長楽寺(現廃絶)の三楽寺を中心に学問が盛んに行われ、およそ学問を志す者は競って全国からここを訪れたそうです。

 政治・文化の中心地であったということは、国宝安楽寺八角三重塔をはじめ、中禅寺薬師堂・薬師如来座像、常楽寺石造多宝塔、長福寺夢殿観音、前山寺三重塔、舞田五輪塔、西光寺阿弥陀堂など、この地に密集している多くの文化財からも、うかがい知ることができます。

 そして、この北条氏が七久里を別院(べついん=本寺とは別に設けられた堂舎)として使っていたことから、別所と言われるようになりました。なお、北条氏の菩提寺は、東前山にある龍光院で、居城が塩田城(規模の大きさでは県下一)です。

 鎌倉幕府滅亡後、この塩田の地は、武田信玄に攻められるまでの200年間、葛尾城(現坂城町)を本拠とする豪族村上氏の勢力下におかれ、村上氏の重臣福沢氏が管理しました。

 安土桃山時代、武田氏滅亡後は、真田氏が、この地の領主となりました。真田昌幸は、1583年に天下の名城上田城(徳川軍の2度の侵攻を2度とも破る)を築城し、城を中心とした町造りを行ったため、政治・文化の中心は、この塩田の地から、上田城へと移行し、塩田の地は、農村地帯へと変わりました。その後、塩田の地は、「塩田三万石」と称され、豊かな田園地帯となりました。

 そして、400年後の今、この豊かな田園地帯を別所線が走っています。

田園を走る別所線