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2026~上田城復興400年~

今から400年前の江戸時代、上田城の歴史を現在までつないだ人物がいました。
その名は仙石忠政。
関ケ原の合戦後、徳川方の手によって破壊されてしまった上田城を築き直し、今私たちが目にすることができる櫓や堀、石垣などの大部分はこの時に造りあげたのです。
400年後の記念すべき年に、忠政の功績を振り返り、上田城の魅力を改めて感じていきましょう。
仙石忠政とはどんな人物だったのか

(仙石忠政肖像画 上田市立博物館所蔵)
仙石忠政の年譜
| 年 | できごと |
|---|---|
| 1578年(天正6年) | 仙石秀久の三男として誕生 |
| 1590年(天正18年)頃 | 父、秀久が小諸城主になる |
| 1600年(慶長5年) |
第二次上田合戦に徳川軍の一員として参加 その功績により、徳川秀忠から「忠」の字を拝領したと伝わる |
| 1614年(慶長19年) |
父、秀久没 家督を継ぎ小諸藩主に |
| 1622年(元和8年) |
領地替えで真田信之に代わり上田藩主に 上田城は破壊された後だったので、藩主屋形(現在の上田高校)で政治を行う |
| 1626年(寛永3年) |
幕府の許可を得て 上田城の復興工事を開始 |
| 1628年(寛永5年) | 江戸の地で病死。 |
エピソード1 仙石家の家紋 永楽通宝(えいらくつうほう)
「永楽通宝」は、仙石家の代表的な家紋であり、織田信長より与えられたものと伝えられています。
永楽通宝はもともと中国・明代に鋳造された銭で、日本にも輸入され、
室町時代から江戸時代初期にかけて広く流通しました。そのことから、当時の権威や経済力を象徴する意匠として用いられたと考えられています。
上田城を治めていた真田の家紋は三途の川の渡し賃の「六文銭」で死をも恐れず戦う覚悟が込められていると言われています。
どちらもお金にまつわる家紋ですが、その意味するところに違いがあります。
エピソード2 真田氏の上田城 その堀を埋めたのは仙石忠政!?
関ケ原の合戦後、徳川方の命令で上田城は破壊されますが、その作業に、当時は近隣の小諸を治めていた仙石氏が加わっていても不思議はなく、後に復興する城を自らの手で壊していた可能性も考えられます。

関ケ原の合戦後の上田城を描いたとされる絵図(上田市立博物館所蔵)には「ウメホリ」という文字が書かれています。
エピソード3 上田城築城覚書
上田城を築城する際に江戸にいた忠政が、上田にいる現場監督に24もの項目に分けて細かい指示を出した「上田城築城覚書」と言われる手紙が残っています。
その指示の一つが「古城の堀のゆがみを直すこと」というもの。
古城とは真田氏時代の城と想定され、一度は埋めてしまったかつての堀を再建の際に活用したことが読み解けます。
エピソード4 未完成の上田城
1628年に仙石忠政は江戸の地で病死。上田城の復興はわずか2年で中断されます。
二の丸の北側(現在の陸上競技場の近く)にある石垣のそばの地面には、建物の基礎にするために設置したと考えられる大きな礎石が残されていますが、実際に建物が造られた記録はありません。
忠政はこの場所にも建物を築きたかったことがうかがえます。
未完成に終わった上田城。忠政はどんな姿を思い描いていたのでしょうか。
仙石忠政が復興した上田城の特徴
江戸時代、幕府の許可を得て復興された上田城には天守がないものの、それほど広くない本丸内に櫓を7つも造り、武者溜り(兵の駐留所)や石垣・堀を巧みに使った二の丸東側の守備の工夫などの特徴があります。
さらに詳しく上田城の特徴
400年後の復元整備の状況
仙石忠政が上田城を復興して400年後の今、上田市でもその姿を再現するため復元整備事業を進めています。

