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木曽義仲を支えた地元の武士たち

更新日:2022年3月28日更新
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木曽義仲を支えた地元の武士たち(依田氏・丸子氏・長瀬氏・塩川氏)

 依田城に最も近い場所である依田川沿いの地域には、古くから依田氏、丸子氏、長瀬氏、塩川氏がいました。このうち、依田氏、丸子氏、長瀬氏は、木曽義仲に従軍して活躍しました。また、依田氏、塩川氏、長瀬氏は、その後に起こった承久の乱にも参加しました。

 義仲に従った3氏のうち、依田二郎と丸子小中太は、倶利伽羅峠の合戦を前にした義仲方の軍勢の中でそれぞれ大将として『源平盛衰記』に現れています。長瀬義員(『平家物語』は重綱)は、立派な鎧を身に着けた雄将として『平家物語』では宇治川の戦いで、『源平盛衰記』では三条河原で奮戦する様子が詳しく記されています。

 承久の乱については、依田氏、塩川氏、長瀬氏が『吾妻鏡』に、塩川氏、長瀬氏が『承久記』にそれぞれ名が見られます。

 

 丸子氏、長瀬氏、塩川氏は、きわめて史料が少なく詳しいことはわかりません。図は、そのような中でそれぞれの館の推定地について先学の調査研究をもとに地名や考古学的な観点等から考察したものです。

 一方、依田氏は、古くからこの地方にあったと知られている依田庄の開発領主で、木曽義仲を館に招き入れ、北陸へ進撃するまでの間の根拠地を提供したと考えられています。『源平盛衰記』の依田二郎は、依田氏の系図の実信と同一人物と推定されています。義仲が敗北した後の一時期は、依田氏は飯沼氏と称していました。『吾妻鏡』には、飯沼三郎が幕府方として承久の乱に参加したことが記されています。

 依田氏の館の位置について、『丸子町誌』では平安時代末から鎌倉時代のそれぞれの時期などによって御嶽堂館跡、高築地館跡、宗龍寺館跡、中城館跡などを推定しています。(「依田館」はどこか」をご覧ください。)

【参考:『丸子町誌』歴史編 上】

丸子氏などの居館推定地

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