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木曽義仲挙兵武者行列 関連人物紹介
○木曽義仲
幼名は駒王。源頼朝のいとこにあたります。
2歳の時に父義賢が甥の義平に討たれてしまいました。義平は義仲も殺すよう家人に命じましたが、幼い子どもを殺すのは忍びないと斎藤実盛に預けられ、その後、木曽の中原兼遠のもとで養育されることになりました。
1180年に以仁王の令旨を受けた義仲は、信州丸子で平氏追討の兵を挙げました。破竹の勢いで平氏を西国へ追い落として入京した義仲は旭将軍と呼ばれ、征夷大将軍にも任じられましたが、後白河法皇・源頼朝と対立し、31歳の時に源義経・範頼と戦って敗死しました。
○巴御前
義仲の妻の一人。
義仲を養育した中原兼遠の子で、樋口兼光と今井兼平の妹。義仲とともに戦った一騎当千の女武者として有名です。1184年義仲敗死の際にも共に戦場にいましたが、義仲に諭されて信濃に落ち延びました。その後は尼になったと伝えられています。
○葵御前
義仲の妻の一人。『源平盛衰記』では巴御前と並んで「女将軍」と称されています。
水内郡の土豪栗田範覚の娘だといわれています。父範覚が戦いで義仲に助けられた縁で仕えることになったという葵御前ですが、俱利伽羅峠の合戦で討ち死にしました。
○山吹御前
義仲の妻の一人。
義仲が鎌倉勢に攻められて都落ちを余儀なくされた時、病気のため京に留まったとされています。
○今井四郎兼平
木曽義仲四天王の一人。
義仲を養育した中原兼遠の子で、兄は樋口兼光、妹は巴御前。義仲とともに戦い、勇名をとどろかせました。源義経・範頼との戦いの最後には主従二騎のみとなり、自害しようとする義仲を守り、身代わりに敵を防ぎました。義仲が討ち取られたのを知ると自刃をとげました。
○樋口次郎兼光
木曽義仲四天王の一人。
義仲を養育した中原兼遠の子で、弟は今井兼平、妹は巴御前。源行家を破り急追する途中で義仲が討ち死にしたことを知りました。義経の招きを受けますが、主君は義仲だけだと断り、斬首されました。
○根井小弥太行親(幸親)
木曽義仲四天王の一人。楯六郎親忠の父。
佐久の武士。横田河原の合戦や俱利伽羅峠の合戦で義仲に従いました。義仲討ち死にの戦いで戦死しました。
○楯六郎親忠
木曽義仲四天王の一人。根井小弥太行親の子。
横田河原や俱利伽羅峠の合戦で戦功を立てました。義仲最期の戦いでは、義経軍と宇治川で戦って討ち死にしました。
○手塚太郎光盛
篠原合戦において、平家方についていた義仲の恩人斎藤実盛を討ち取った話が知られています。
義仲最期の戦いに付き従い、最後の5騎になるまで戦い討ち死にしました。
○大夫坊覚明(大夫房覚明)
海野幸親の子で浄土真宗の僧。義仲の祐筆(参謀かつ秘書)として戦略に参画しました。義仲の死後は頼朝から逃れ京に入った後、法然の弟子になったといわれています。
○長瀬判官代義員(重綱)
平安末期の土豪。
義仲最期の戦いで義経軍を宇治川で防戦する際に、義仲の従弟を名乗って戦ったといわれています。この宇治川の戦いで敗死しています。
○海野幸親
小県郡海野を本拠地とする土豪。義仲が挙兵にあたって最も頼りにした一人。
○依田二郎実信
義仲に従った信濃武士。依田城主。
○丸子小中太
義仲に従った信濃武士。依田川右岸の有力者。
○塩田高光
義仲に従った信濃武士。
○桃井五郎
義仲に従った上州武士。
○木曽義高(清水義高)
義仲の長子。
義仲と頼朝の対立を避けるために人質として鎌倉に送られました。頼朝の娘大姫が許嫁となりますが、義仲が討ち死にすると頼朝は義高を殺そうと考えます。それを知った大姫は義高を逃がそうとしましたが、逃げ切れずに捕まって殺されてしまいました。
○海野小太郎幸氏
海野幸親の子。頼朝の人質として鎌倉へ行く義高に随行しました。
義仲が頼朝に敗れると自分が身代わりに寝床に入り、義高を鎌倉から逃がそうとしました。義高は捕まって殺されてしまいましたが、幸氏の勇気を称えた頼朝は幸氏を重用しました。義仲残党の保護にも尽力したといわれています。
真田幸村で有名な真田氏は幸氏の子孫です。
○大姫
頼朝の長女で、義仲の子義高の許嫁。義仲の死後、義高が殺されてしまいますが、大姫は義高への想いを貫き通して病死しました。
○以仁王
後白河法皇の第二皇子。
○源範頼
頼朝の弟で、義仲の従兄。義仲追討の命を受けて、義経とともに京へ赴きました。
【参考】
「長野県歴史人物大事典」郷土出版社
「4コマでわかる平家物語の木曽義仲」まんが・文/西川かおり
「義仲・巴出世街道マップ」発行/「義仲・巴」広域連携推進会議
「広報まるこ」