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祝 日本遺産認定

更新日:2020年9月23日更新
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 祝 日本遺産認定

  信州上田・ 塩田平が日本遺産として認定を受けました!

日本遺産とは

 日本遺産とは、地域の歴史的魅力や特色を通じて我が国の文化・伝統を語るストーリーを「日本遺産(Japan Heritage)」に認定するとともに、ストーリーを語る上で不可欠な魅力ある有形・無形の文化財群を地域が主体となって総合的に整備・活用し、国内外に戦略的に発信することにより、地域の活性化を図るものです。

 平成27年から令和元年度までに83件が認定されており、今回の21件を合わせて104件となりました。認定は今回(令和2年度)が最後となります。

 長野県内の地域型の認定は初めてとなります。

 日本遺産ポータルサイト<外部リンク>

日本遺産の認定対象

 日本遺産は、

・歴史的経緯や地域の風土に根ざし世代を超えて受け継がれている伝承、風習等を踏まえたストーリーであること。

・ストーリーの中核には、地域の魅力として発信する明確なテーマを設定の上、建造物や遺跡・名勝地、祭りなど、地域に根ざして継承・保存がなされている文化財にまつわるものが据えられていること。

・単に地域の歴史や文化財の価値を解説するだけのものになっていないこと。

という点を踏まえたストーリーを認定するものです。

(文化財そのものが認定対象となるわけではありません)

信州上田・塩田平が日本遺産に認定されました!

 令和2年6月19日、以下の内容で日本遺産の認定を受けました。

レイラインがつなぐ「太陽と大地の聖地」~龍と生きるまち 信州上田・塩田平~

認定ストーリー

 信濃国分寺から生島足島神社、別所温泉を通るレイライン(夏至の朝、太陽が日の出の際に地上につくる光の線)沿いに多数分布する神社仏閣や雨乞いの祭り等に見られる様々な「祈りのかたち」を題材とし、降水量が少ない風土で身近な山々に宿る龍神と密接に関わってきた塩田平の人々の暮らし等について、ストーリーにまとめました。

ストーリーの概要

 独鈷山と夫神岳から扇状に開ける地・塩田平は、古来「聖地」として、多くの神社仏閣が建てられている。
 山のふもとにある信州最古の温泉といわれる別所温泉、「国土・大地」を御神体とする「生島足島神社」、「大日如来・太陽」を安置する「信濃国分寺」は、1本の直線状に配置され、レイラインをつないでいる。
 夏至と冬至に、鳥居の中を太陽の光が通り抜け、神々しくぬくもりのある輝きを享受できるのだ。
 先人たちが、この地が特別であると後世に伝えようと遺した様々な仕掛けは、今も、訪れる人びとにパワーをチャージさせる。

 生島足島神社

ストーリー詳細

 ■信州の学海
 上田は、険しい山々に囲まれた盆地ゆえに、本州では一番雨の少ない地だ。
 「おてんとうさま」が毎日のように微笑み、穏やかな気候という特徴は、信濃国分寺が置かれたこと、鎌倉北条氏の一派が終の棲家としてここを選んだ理由でもある。
 塩田平には数多くの寺社が建てられ、中国の高僧や多くの学僧が訪れたのは、山を背に構える別所温泉があったことが大きい。
 豊かな湯で心まで洗われる温泉の楽しみがあったからこそ、僧たちは、この地を訪れたのであろう。
 別所温泉にある安楽寺を訪れてみると、薄暗い木立の中、見上げるように階段を登った先に、日本唯一の木造八角三重塔が目に飛び込んでくる。
 微かな光の方向に仰ぎ見る屋根裏の華やかな木組みは、私たちを自ずと厳かな気持ちにさせてくれる。
 しかも「四重塔」にも見える不思議な形だ。
 また、北向観音堂は、善光寺と「両参り」すると御利益が増すという。境内の手取水(ちょうず)までも温泉を使い、湯煙が立ち上る境内には温泉の匂いが漂う。
 見晴台に立つと、塩田平から市街地までを見渡せ、我はこの地に降り立ったのだ、という気持ちにさせられる。
 この地が僧たちにとって「特別な場所」であり、「別所」と名付けられたことも納得できる。
 湯煙が漂う地に花開いた仏教文化の遺産は、湯浴みの効能のみならず、訪れる人びとを癒している。

 安楽寺木造三重塔

 ■神宿る「山」への祈り
 上田の雨が少ない気候は、風雨が引き起こす災いからこの地の暮らしを守ってきた。しかし、それゆえに神は時として干害などの試練を課してきた。
 人びとは水源となる山々に神を崇め、祈り、恵みの雨を願った。
 500年以上も続く雨乞いのまつりである「岳の幟(たけののぼり)」は、色鮮やかな幟が特徴的だ。
 「下り龍」を描いた幟で、夫神岳山頂に祀られた「龗”オカミ”」と呼ばれる九頭龍神を山麓の別所神社までお連れする。
 龍をかたどったたくさんの幟を迎えるのは、三頭獅子とささら踊りの子どもたち。カラフルな幟と衣装が鮮やかに映え、山間に歌声と太鼓の音が響くころには、本当に、龍からの雨に恵まれる。
 山には、古より受け継がれてきた水への憧れと神への畏怖が投影される。
 龍が宿るこの山は、山菜や松茸など、山の幸をはぐくみ、マツタケ小屋の隆盛につながっている。

 岳の幟行事

 ■祈りの言葉は「アメ フラセタンマイナ」
 塩田平はため池を造って水を蓄え、ここで温めた水を田んぼに入れて稲の生長を促し、「塩田三万石」と呼ばれる上田随一の穀倉地帯へと変身した。
 ため池でも「百八手」と呼ぶ雨乞いのまつりが行われる。
 池の周りを大勢で囲んで「たいまつ」に火をつけ、もくもくと上がる煙のなか「アメ フラセタンマイナ」と唱える。
 ため池は稲穂をはぐくむだけでなく、マダラヤンマなどの命もつないできた。
 人柱やカッパなどの伝説は、ため池にも神を崇めていたことをうかがわせる。
 雨を願う人びとは、時に荒療治として路傍のお地蔵様を川へ放り込んだ。ここでも祈りの言葉は「アメ フラセタンマイナ」。
 お地蔵様を怒らせてでも、龍(雨)との再会を願っていた。
 独鈷山と夫神岳、そして麓の寺社は、常に塩田平の人びとの暮らしに寄り添ってきた。
 そして、路傍のお地蔵様は、また川に投げ込まれないかと心配して、今日も雨雲を待ちながら空を見上げている。
 これが「山に神、野に仏」とも言うべき、上田の人びとがつないできた「祈りのかたち」だ。

 舌喰池 
 
 ■未来への懸け橋
 このように塩田平には、この地を特別な「聖地」とする景観が遺されている。国土・大地を祀る「生島足島神社」、「大日如来・太陽」が安置された「信濃国分寺」。
 生島足島神社は夏至には太陽が東の鳥居の真ん中から上がり、冬至には西の鳥居に沈む。太陽と大地は、この神秘的な光景をレイラインとして現代に遺した。
 そして、この「太陽と大地の聖地」に重なるように遺したもうひとつの景観が、100年前から守り続けてきた鉄道・別所線だ。
 生島足島神社から、別所温泉までの軌道は、不思議なことにレイラインと一致する。
 そして、駅をつなぐ線路は、空からみると龍のかたちをしていると言われる。
 塩田の人びとは龍を特別な神として崇め、祀り、龍とともに生きてきたことを、別所線の軌道に投影して大切に遺してきたのだ。
 龍の背に乗ってめぐる「太陽と大地の聖地」は、これからも、まぶしいばかりの輝きとぬくもりをもって、訪れる人の心に光を与えてくれるだろう。

 別所線

 ※生島足島神社以外の当ページ内の写真は、写真家 岡田光司さんの作品です。

 同じ内容を記載したPDFの資料もございますので、ご覧ください。

 レイラインがつなぐ「太陽と大地の聖地」~龍と生きるまち 信州上田・塩田平~ [PDFファイル/597KB] 

構成文化財一覧

番号

ふりがな

文化財の名称

指定等の状況

ストーリーの中の位置づけ

■「信州の学海」

1

安楽寺(あんらくじ)八角(はっかく)三重塔(さんじゅうのとう)

国宝

中国から伝わった「禅宗様」で造られた、現存する日本唯一の木造八角三重塔で、長野県の「国宝第一号」。かつては「四重塔」とされたが、現在は一番下の屋根は裳階(ひさし)と解釈されている。禅宗寺院であるにも関わらず一層内部に大日如来像が安置されており、太陽信仰との関連をうかがわせる。

創建は1290年代とされ、八角形のどっしりとした落ち着きがある塔で、頂上には相輪が青天高くそびえている。屋根の下の華やかな木組みも相まって、安定感と崇高美、華麗さを兼ね備えた、天下の名塔である。

2

木造惟仙(もくぞういせん)和尚(おしょう)坐像(ざぞう)・

木造(もくぞう)恵(え)仁(にん)和尚(おしょう)坐像(ざぞう)

国重文

安楽寺の創立は慈覚大師ともいい、宗派は天台あるいは律宗とも考えられている。その後、信濃出身の僧・樵谷惟仙が臨済寺院として中興開山した (現在は曹洞宗)。境内の伝芳堂に、惟仙と開山二世幼牛恵仁の等身大の僧侶の椅像「頂相」が並んで祀られている。没後、弟子たちがその徳を慕い造立したもので、安楽寺が鎌倉と同水準の禅宗文化を受容し、「信州の学海」として、修行僧を多数輩出していたことがうかがえる。

3

常(じょう)楽寺(らくじ)本堂(ほんどう)

市建造物

 

 

天台宗別格本山。平安時代初めに慈覚大師が開創と伝え、樵谷惟僊をはじめ、多くの青年僧が学んだ「信州の学海」を支えた寺院として名高い。

本堂は寄棟造、茅葺の建物で、江戸時代中期後半の建築で、本尊は大日如来の五つの智慧を表す五智如来の一尊である妙観察智阿弥陀如来である。

 

 

4

常(じょう)楽寺(らくじ)石造(せきぞう)多宝塔(たほうとう)

国重文

石造多宝塔は弘長2年(1262)の作で、総高274.0cmの重厚で堂々とした風格や造り方は鎌倉期多宝塔の優品。塔が建てられている所は、北向観音の出現地といい、境内でもっとも神聖な場所とされる。

  多宝塔は大日如来を具現化したものとされ、太陽信仰の一端をも垣間見ることができる。

5

北向(きたむき)観音堂(かんのんどう)

未指定

(建造物)

平安時代初期に比叡山延暦寺座主慈覚大師円仁が開いた霊場。北向きの本堂(本尊は千手観音菩薩像)は全国でもほとんど例が無く、南向きの善光寺本堂と相対している。「極楽往生」を願う善光寺と「両参り」し、ここで「現世利益」を祈ることで、御利益があるとされる。

かつて参道脇に長楽寺(常楽寺、安楽寺とともに天台宗の「別所三楽寺」のひとつ)があったが、現在は常楽寺を本坊とする。昭和36(1961)年に善光寺本堂と同じく、「撞木造り」の建物として増改築された。なお、手水舎には境内から湧出している温泉が使われている。

6

善光寺(ぜんこうじ)地震(じしん)絵馬(えま)

未指定

(有形民俗文化財)

  「善光寺だけでは片参り」のいわれを伝える絵馬。北向観音で厄除札を受けた後、善光寺御開帳に向かった尾張の市之助が、門前宿で弘化4(1847)年の善光寺地震に遭遇した際に、北向観音で受けたお札が身代わりになってくれたおかげで、災難を逃れたという伝説を描いている。

7

愛染(あいぜん)カツラ

(別所(べっしょ)五木(ごぼく))

市天然記念物

(未指定)

 (天然記念物)

 

神仏が姿を現した「影向の桂」といわれる霊木で、目通り幹囲5.8mの太さがある。ハート形の葉が珍しく、故川口松太郎原作の日活映画『愛染かつら』のモデルとなり、今でも縁結びの霊木として老若男女に親しまれている。

別所温泉には他に、北向観音の夫婦杉〈夫婦円満〉、薬師堂のねじり紅葉〈素直な心〉、常楽寺の御船の松〈極楽浄土に導く〉、安楽寺の高野槇〈希望〉の霊木があり、「別所五木」と呼ばれて親しまれている。

 

8

舞(まい)田(た)の石造(せきぞう)五輪塔(ごりんとう)

県宝石造物

五輪塔は、はじめ大日如来を尊ぶことから造られたといい、その後、身分が高い人の供養塔として用いられるようになった。総高212cmの鎌倉時代の五輪塔の優品で、塩田平にたくさんある石造文化財の中でもひときわ目立つ雄大な塔だ。

地輪、水輪、火輪、風輪、空輪からなり、本例は風・空輪が一石で造られている。水輪には梵字「バン」(大日如来)が刻まれている。各部材の様式等からみて、鎌倉初期の建立と推定されている。

文治2(1186)年この地に金王庵を創建した渋谷土佐入道昌順の墓塔と伝えられている。

■神宿る「山」への祈り

9

前山寺(ぜんさんじ)三重塔(さんじゅうのとう)

国重文

前山寺は塩田城の祈願寺と伝えられ、本尊は大日如来。三重塔は室町時代初期の造立とされ、初層と二層に掲げられた大日如来の額で金剛界五仏を表す。二層・三層目の匂欄が未完成であるにも関わらず、何の不調和感もなく、「未完成の完成塔」と絶賛される。荘厳な九輪の下、杮葺きの屋根が重なり合った美しい曲線が四季の山色に映え、その姿は、名塔の誉れを欲しいままにしている。

真言宗の「信濃の四談林」のひとつであり、三楽寺とともに「信州の学海」としての役割を担った。

10

ちがい石(いし)とその産地(さんち)

市天然記念物

「ちがい石」は、2つの中性長石がX形に交わって晶出した鉱物で、ここ弘法山でしか産出しない。「誓い石」とも呼ばれ、弘法大師空海が「大切に保持すれば災厄から免れさせる」ことを誓ったという伝説を秘める。

11

西光寺(さいこうじ)阿弥陀堂(あみだどう)

県宝建造物

弘法大師空海が大日如来像・阿弥陀如来像を彫刻し、小堂を建てたのが開創と伝え、鎌倉時代に塩田北条氏が開基となり、足利から実勝和尚を招いて開山とした。阿弥陀堂は室町後期の寄棟造の建物で、飾らない檜皮葺のシルエットが美しい。

12

中禅寺(ちゅうぜんじ)薬師堂(やくしどう)

国重文

約800年前に建物と推定される中部日本最古の木造建築で、塩田平に仏教文化が根付いた時期を示すものだ。

宝形造の素朴な茅葺屋根と青空とのコントラストが美しい。薬師如来像を祀る「薬師堂」であるが、「方三間の阿弥陀堂」形式の不思議な建物だ。

13

中禅寺(ちゅうぜんじ)木造(もくぞう)薬師(やくし)如来(にょらい)座像(ざぞう)

国重文

薬師堂の本尊で、平安時代後期(藤原期)の「定朝様」に進取の鎌倉様式を取り入れた、いわゆる「藤末鎌初」の仏像。像高は97.8cmで、その台座(受座)には流鏑馬を描いた墨書戯画が見られる。塩田平に鎌倉から流入した仏教文化の影響を示す作品である。

14

中禅寺(ちゅうぜんじ)木造(もくぞう)金剛(こんごう)力士像(りきしぞう)

県宝彫刻

  薬師堂仁王門に安置された、平安時代末の信州最古の金剛力士像。寄木造で像高207cmのやや小振りの像だ。制作時期は薬師堂本尊とほぼ同じとみられ、この像から、当時、中禅寺が進取の様式により伽藍を整えていたことがうかがえよう。

15

前山(まえやま)塩野(しおの)神社(じんじゃ)

拝殿(はいでん)及(およ)び本(ほん)殿(でん)

市建造物

「延喜式」等に載る古社で、独鈷山の北麓に鎮座し、かつては山上の鷲岩という巨岩に祀られていたという。

棟札から、拝殿は寛保3(1743)年のものとみられ、二階建ての「楼門造り」という珍しい建物だ。また、本殿は寛延3(1750)年の建築と考えられ、「一間社流れ造り」の様式で、見事な龍の彫刻が目を引く。

神が降る岩「磐座」と境内を流れる塩野川は、異空間に迷い込んだような錯覚を覚えさせる。

16

法(ほう)住寺(じゅうじ)虚空蔵堂(こくぞうどう)

附(つけたり) 厨子(ずし)

国重文

平安時代に創建されたと伝える天台宗の古刹。独鈷山を主峰とする虚空蔵信仰の山麓寺院(南麓)として捉えられる。堂全体は「和様」で造られているが、懸魚などには「禅宗様」の要素も見られ、室町時代中頃に造られた建物と考えられる。

厨子の時代はお堂と同じ頃と考えられ、方一間入母屋造という禅宗様式独特の方式で造られている。中には虚空蔵菩薩坐像(室町時代・寄木造・像高45.4cm)が安置されている。

17

別所(べっしょ)温泉(おんせん)の岳(たけ)の幟(のぼり)行事(ぎょうじ)

国選択無形民俗文化財

永正元(1504)年に大旱魃に苦しんだ農民が、雨の神様に貴重な反物をささげて祈ったことが始まりとされ、嘉永2(1849)年「善光寺道名所図会」にも記される雨乞いのまつりである。

本来は7月15日が祭日であるが、現在はそれに近い日曜日に行う。天に昇る龍を象った幟は、長さ約6mの青竹竿に赤・青・黄などの色鮮やかな布が取り付けられている。

夫神岳の頂上に祀られた「龗”オカミ”」九頭龍神の祠で住民代表が神事を行った後、降り龍の幟を先頭に70本もの幟が山を下る。麓で別所神社の神主総代や三頭獅子とささら踊りの一行と合流して温泉街を一巡する。

平成10(1998)年に開催された長野冬季オリンピックの閉会式会場でも披露された。

18

別所(べっしょ)神社本(じんじゃほん)殿(でん)

 

(神楽(かぐら)殿(でん))

 

(本朝(ほんちょう)縁結(えんむすび)大神(おおかみの)祠(ほこら))

市建造物

(未指定)

建造物

(未指定)

建造物

別所温泉の北方、塩田平をはじめ遠く浅間連峰が望める小高い丘にある産土神。岳の幟行事の終着地である。

建物は天明8(1788)年のものと思われ、安楽寺の山門など、塩田平の寺社建築に多くの優れた作品を残した、上田房山の末野一族の手によるもの。

なお、境内の立派な神楽殿や、本殿の背に祀られる「本朝縁結大神」なども貴重な文化財だ。

19

鞍(くら)が淵(ふち)と蛇(じゃ)骨(こつ)石(いし)

未指定

(名勝・天然記念物)

 

鞍が淵の名は、独鈷山から落下した2つの大岩が折り重なって鞍のように見えることが由来だ。岩の間を流れる産川が造る淵には、かつて大蛇が住んでいたという。周辺で採取される蛇骨石(灰沸石)は独鈷山の岩石に含まれる鉱物で、色と形がヘビの骨に似ていることからこの名がある。

「小泉小太郎」とは、大蛇を母とする大柄な男の子で、産川(鞍が淵)は小太郎が産み落とされた場所。この伝説は、大蛇は水の神であり、産川の源である独鈷山が水神として崇められていたことをうかがわせる。小泉小太郎伝説は、松谷みよ子の「竜の子太郎」のモデルとなった。

 

■祈りの言葉は「アメ フラセタンマイナ」

20

千駄(せんだ)焚(だ)き・百八手(ひゃくはって)

未指定

(無形民俗文化財)

日照りの年に、山頂やため池の土手で、松明を点したり、藁の束などに火をつけ、「雨降らせタンマイナ」と唱える雨乞いの習俗である。祈りの方法は集落やため池ごとに、若干の違いがある。

21

奈良尾(ならお)石造(せきぞう)大姥(おおば)坐像(ざぞう)

市彫刻

大旱魃の際に、富士嶽で雨乞いをしたところ、忽ちのうちに雨が降ったので、御礼として、寛正7年(1466)に造られたものという。その後、「祈りのかたち」は、この石像に願掛けをした千駄焚きや、石像を池の中に放り込むなどに変化した。祈りの言葉はここでも「雨降らせタンマイナ」だ。

怖い顔に反して「大姥さま」と親しみを込めて呼ばれる像は、写実的で迫力を感じる見事な石像である。

22

保(ほ)野(や)の祇園(ぎおん)祭(さい)

市指定無形民俗文化財

保野の集落は、中世には三斎市が立った塩田平の経済を支えた場所として知られる。保野塩野神社の祇園祭は、大凶作でまつりを休んだところ、疫病が大流行したため、その後は凶作でも休まずに続けてきた。

仮宮の市神に移られたお旅所前と、翌日午後に本社に帰られた広庭で、早乙女の揃い姿で踊るささら子の踊りと天狗と雄獅子2体、雌獅子1体による獅子踊りが舞われる。

凶作が行事の存続に関与した事例として注目されるまつりだ。

■未来への懸け橋

23

信濃(しなの)国分寺(こくぶんじ)跡(あと)

国史跡

天平13(741)年の「国分寺建立の詔」により、信濃国分寺は上田に造られることとなり、770年頃には伽藍が整備されたと推定される。寺伝には、承平8(938)年の平将門と平貞盛の戦いの際に兵火で焼失したとある。

昭和38(1963)年から46年に行われた発掘調査では、全国的にも稀な僧寺と尼寺が並ぶ伽藍配置と瓦、什器などの遺物が検出されるとともに、10世紀頃の衰退の痕跡をも確認するなど、大きな成果を残した。この結果を元に史跡公園として整備された。

寺域の東北隅の高台に鎮座する国分神社が、レイラインの起点となる。

24

信濃(しなの)国分寺(こくぶんじ)本堂(ほんどう)

長野県宝

天台宗の寺院で、本堂は薬師堂と呼ばれている。現在の信濃国分寺の境内は、天平の伽藍の北側の一段高い場所に、かつての僧寺と主軸線を合わせて整備されている。

万延元(1860)年に竣工し、彫工は地元上沢村の竹内八十吉であり、龍や鳳凰の彫刻が見事である。

25

信濃(しなの)国分寺(こくぶんじ)三重塔(さんじゅうのとう)

国重文

寺伝では、建久8(1197)年に源頼朝が善光寺参詣の帰途、寺の衰退を憂い、塔の復興を命じたという。建築様式から、室町時代に建立されたものと推定され、「和様」の外観は堂々と落ち着いた雰囲気を呈している。

第一層の大日如来が安置されている仏壇の鏡天井を囲む「如意頭文」は「禅宗様」の建物で用いられるもので、一層の内部は赤や緑の顔料で、鮮やかに塗られていた。

別所温泉の安楽寺八角三重塔とともに大日如来が安置されたふたつの塔は、レイラインの発着点を示す象徴とされたのかもしれない。

26

信濃(しなの)国分寺(こくぶんじ)石造(せきぞう)多宝塔(たほうとう)

市指定

高さ152cmと常楽寺のものに比べるとやや小振りであるが、各部の様式・手法などから鎌倉期の多宝塔とされる。常楽寺のものがレイラインの終着点に置かれた塔だとすると、こちらは起点とされた塔なのかもしれない。

屋根や塔身にある窪みは堅い石で叩いて粉にして飲むと病気が治るとか、お守りにすると良いという信仰の痕跡とみられる。

27

牛頭(ごず)天王(てんのう)祭文(さいもん)

市指定

信濃国分寺八日堂縁日(毎年1月8日)で頒布される「蘇民将来符」のいわれが記されている。この「祭文」の写しは全国で4通確認されているが、文明12(1480)年に書写された国分寺のものが最古と判明した。

牛頭天王は薬師如来が姿を現したものとされ、厄病除けの神として信仰され、やがて息災延命、七難即滅などの諸々の御利益が付け加わりながら信仰されてきた。

28

上田市(うえだし)八日堂(ようかどう)の

蘇民将来(そみんしょうらい)符(ふ)頒布(はんぷ)習俗(しゅうぞく)

国選択無形

民俗文化財

「蘇民将来符」は厄除けのお守りで、家の戸口に掛けたり、神棚に供えられる。泥柳(ドロヤナギ)の木を手彫りした六角錐形の護符だ。

室町時代から制作されてきたといわれ、門前に家を構える人たちで作る「蘇民講」が重要な役割を果たしている。まず、師走の朔日に寺に集まり、木材から護符を「蘇民包丁」で切り出す「蘇民切り」を行う。

寺で頒ける護符には、住職が大福・長者・蘇民・将来・子孫・人也の文字と魔除けの紋様を、墨と朱で六面に交互に描く。また、蘇民講の面々は、文字とともに、家それぞれにオリジナルの七福神の絵姿を描いた護符を作って頒布する。

蘇民将来信仰は全国に見られるが、木製の護符を分けるところは少なく、蘇民講と寺の制作・頒布過程が他に見られない行事である。

29

八日堂(ようかどう)縁日図(えんにちず)

市指定

描かれている信濃国分寺本堂の形状等から、江戸時代中期前半に描かれたものと推定され、写実的であり、当時の参詣風景等が分かる風俗史料として貴重である。

この図からは「蘇民将来符」が頒ける姿や、農業に必要な種子や農具、生活必需品、浮世絵等の嗜好品が商われている様子がうかがえ、当時の人々の暮らしと祈りの一端が垣間見える。

30

泥宮(どろみや)

未指定

(建造物)

泥宮は字の如く「大地(泥)」を御神体とし、生島足島神社が創建された時に、遺霊をここに残したという。「泥宮」という呼称は寛政2(1790)年以降とされ、それまでは「諏訪大明神」であった。

かつては生島足島神社の西鳥居とまっすぐな道で繋がっていたといい、御神体を同じくするこのふたつの神社は、深い関係があることを示す。

神社はレイラインを構成する、聖地のひとつとして親しまれている。

31

生島(いくしま)足(たる)島(しま)神社(じんじゃ)

本(ほん)殿内(でんない)殿(でん)

県宝建造物

平安初期にまとめられた「延喜式」に載る古社で、生島大神と足島大神を祭神とする。御神体は「大地」であり、日本列島の真ん中に鎮座する神だ。

寛政11(1799)年に生島足島神社と社名を改めており、中世以降には「下之郷大明神」「諏訪法性大明神」などと呼ばれ、武田信玄や真田氏、歴代上田藩主の手厚い加護を受けた。

生島大神と足島大神を祀る神社は全国的にも珍しく、近畿地方を中心に数社しかなく、東日本では皇居内宮中三殿とここのみである。

太陽が夏至には東の鳥居の真ん中から上がり、冬至には西の鳥居の真ん中に沈むよう、鳥居が太陽の至点と一致するように配置されており、まさに「太陽」と「大地」を結ぶ神社だ。

 境内には夫婦欅と呼ばれる樹齢800年を超えると推定される大木があり、良縁子宝等が祈願される。

32

生島(いくしま)足(たる)島(しま)神社(じんじゃ)

摂社(せっしゃ)諏訪(すわ)社本(しゃほん)殿(でん)

市指定

棟札から、慶長15(1610)年に藩主・真田信之が建てたことが判明している。諏訪神を祭神とし、雨神や農耕神ともされ、神格が龍や蛇、神使は蛇とされる。ここでは蛙が禁忌の動物であり、本殿との間にある神池では毎年正月の1月15日に蛙狩神事が行われる。境内には大蛇が住んでいて、神池には蛙はいないとされる。なお、神池は日によって色が違って見えるという。

33

生島(いくしま)足(たる)島(しま)神社(じんじゃ)文書(もんじょ)

国重文

武田信玄武将の起請文(83通)ほか信玄願文、真田信幸寄進状など11通、合計94通からなる古文書群。

信玄が配下の武将に、謀叛しないことを誓わせた起請文や、越後の上杉謙信との戦いにあたって勝利を祈願した願文からは、信濃攻略を果たした信玄が、上杉との本格決戦に向けて神の加護を得ようとした心中を察することができる史料だ。

34

長福寺(ちょうふくじ)銅像(どうぞう)菩薩(ぼさつ)立像(りゅうぞう)

国重文

長福寺「信州夢殿」の本尊として安置されている。アルカイックスマイルを特徴とする、像高36.7cmの小金銅仏で、7世紀後半の白鳳時代の作品と考えられる。

もとは上高井郡小布施町の旧家に伝わるものだったが、昭和13(1938)年に長福寺に移された。

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別所(べっしょ)線(せん)の鉄道(てつどう)施設(しせつ)

未指定

(建造物)

蚕都上田を支えた鉄道網のうち、唯一現役なのが別所線。上田から別所温泉に至るこの路線は大正10年(1921)に開通した。

電車が上田駅を発つと間もなく真っ赤な鉄橋を通って千曲川を渡る。この千曲川橋梁は、大正13年(1924)の建設で、橋長は224m。橋桁はプラットトラス5連からなり、一番端の斜材(コリションストラット)を持っているのが特徴である。また、中塩田駅や別所温泉駅など、駅舎に近代の趣きを残す建物が多いことも特徴である。

別所線の上田駅から別所温泉駅まで11.6kmの軌道は、下之郷駅から大きく西に曲がり、終点の別所温泉駅までの軌道は、まるでレイラインに沿って夫神岳に向かっているように見える。

記者発表の様子

  日本遺産に関する記者発表が上田市行政チャンネルで公開となりました。ぜひご覧ください。

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