本文
上田消防
私たちは先輩から「江戸火消」、「加賀鳶」と並んで「上田消防」が日本三消防の一つと称されることがあると、教えられてきました。上田の人々がそのように自負するだけの理由はあったようです。
1真田時代
真田家では火気を取り扱う業とする者が多く住んでいた鍛冶町の者に火消の役を命じたので、早くから鍛冶町には火消し係ができたとされています。そして火消係としての課役に対して真田家では、鍛冶町の年貢を免じたようです。鍛冶町がこの時代すでに火消係を勤めたということが後世まで貴い伝統となり、消防活動はいつも鍛冶町が第1といわれ、明治の消防番組でも鍛治町が第1番組となったのです。
1585年8月2日、真田昌幸軍が徳川軍を上田城で破る。
1600年10月、昌幸、幸村、徳川秀忠率いる中山道軍を上田城で再び破る。
(関ヶ原に間に合わなかったため、家康激怒)
二度に及ぶ徳川の大軍の進撃を食い止めたのは、町民が決起し参加した激しい戦いでした。まさに、わが町は自分で護るの精神です。
1615、16年大坂冬の陣、夏の陣 大阪城落城 幸村、九度山
(和歌山県九度山町 現在姉妹都市締結)へ
2仙石氏時代
上田城主仙石政俊は大阪城加番(警護役)を5回命ぜられ、その間の1665年天守閣が落雷により炎上、火薬庫への延焼を阻止し、大坂の町を守った。これにより将軍から長刀一振りを下賜された。1668年、藩命により上田町に消火用の水かご61個が常備されました。
3松平氏時代
1706年、但馬の出石(兵庫県豊岡市 現在姉妹都市締結)から松平氏が所領換えとなり、以降明治まで治めました。上田消防をさらに発展させるため力を注ぎました。当時江戸においては、正月6日に出初式を行い町火消や加賀鳶が町内を練り歩いた後、はしご乗りを演じた。上田でも同様に出初式を行いはしご乗りも演じました。これは信州では上田だけであったようです。1707年「原町問屋日記」には、消火用水かごを134個作ったと記述されています。1730年10月には、横町海野町の大半が焼失、12月には藩邸が全焼。これにより鍛治町はもとより、原町海野町などの商家からも義務的に火消係が出るようになって、後には庶民全戸の若者が消防組に参加するようになったのです。
真田昌幸の時代から受け継がれてきた義勇の精神が、上田市消防団の原動力であり活力です。