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史跡上田城跡の発掘調査について
旧市民会館駐車場の発掘調査の実施について
現在の旧市民会館や駐車場一帯は江戸時代に「武者溜り」(※詳細は「武者溜りについて」をご覧ください。)と呼ばれる城を守るための兵を駐留させる場所であったことが絵図からわかっています。そこには石垣や土塁、「三十間堀」と呼ばれる堀が描かれています。それらの痕跡を確認するため、旧市民会館駐車場の発掘調査を実施しています。
発掘調査の実施に伴い、発掘現場周辺の一部区間の幅が狭くなっております。ご不便をおかけしますがご理解とご協力をお願いいたします。5月27日からの通行止めは解除となりましたが、引き続き通路の幅が狭くなっておりますので、お気をつけて通行してください。なお、危険ですので対象区間の自転車での通行は行わないでください。
○発掘調査の期間 令和6年5月27日(月曜日)から当面の間
○発掘調査の場所 旧市民会館駐車場
今までの発掘調査結果について
令和5年3月の調査
12月に確認された冠塀台石垣に由来すると考えられる礫群周辺の再調査を実施しました。
その結果、他の地点でも冠塀台石垣と関連すると思われる集石列が確認されました。
今後、更に発掘を行い、冠塀台石垣の痕跡を確認できるよう、詳細な調査を進めます。
【冠塀台・三十間堀が描かれた江戸時代の絵図】
【冠塀台石垣の基礎に関係するものと推定される集石列】
また、三十間堀の範囲と推定される地点で5本のトレンチ(溝)調査を実施し、堀の遺構確認を行いました。
その結果、複数地点で、堀の法面と考えられる遺構が確認できました。
今後、詳細な調査を実施し、三十間堀の全体像を解明していく予定です。
【三十間堀の遺構】
令和4年11月から12月の調査
発掘調査範囲内に5本のトレンチを掘って遺構の残存状況を確認しました。
一番南側のトレンチからは1m程度の石を並べた石列が確認され、その下や北側には小さい石(礫)を敷き詰めていたことが確認されました。
【石列】
石列については、江戸時代の絵図に描かれている武者溜りにも石垣が見られますが、並べられている方向や整えられている面の向きなどと合致せず、大正12年(1923)に建てられた上田市公会堂の写真に写っている石垣と合致することから、その頃の遺構であると考えています。
【昭和9年頃の上田市公会堂の写真】
また、石列の西側からはそれぞれ違う礫(角ばった礫と丸みを帯びた礫)を敷き詰めた場所が隣接して2ヵ所確認され丸みを帯びた礫は敷いた時期が2期あるとも考えられます。いずれかは江戸時代の絵図に描かれている冠塀台石垣の基礎の可能性もあります。今後3月の調査にて確認を進めていく予定です。
【2種類の礫が敷かれていた場所】
【冠塀台が描かれた絵図】
現地説明会
- 令和4年12月18日
- 令和5年4月9日
- 令和5年11月4日
- 令和6年8月25日
武者溜りについて
上田城跡公園の旧市民会館や隣接する駐車場の周辺は、城を守るための兵を駐留させる「武者溜り」と呼ばれる場所で、3メートル程の高い石垣や土塁に囲まれた広場でした。また、広場の北側に隣接し「三十間堀」と呼ばれた長方形の堀(長さ約50メートル)があり、上田城が誇る堅固な防御施設が多く設けられたー帯でした。
武者溜りを描いた絵図
武者溜りのイメージ