ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
現在地 トップページ > 分類でさがす > 観光・文化・スポーツ > 歴史・文化財 > 文化財 > 【令和2年度 史跡上田城跡発掘調査速報!】上田城跡の保存・整備

本文

【令和2年度 史跡上田城跡発掘調査速報!】上田城跡の保存・整備

更新日:2021年5月14日更新
印刷用ページを表示する
<外部リンク>

上田城の発掘調査を行いました!

 上田城跡の発掘調査は、史跡整備のためのデータを得るために、平成2年度から行っています。今回、発掘調査した場所は、尼ケ淵の崖に面した本丸(眞田神社境内)の一画で、真田井戸のちょうど南側にあたります(第1・2・3図)。                    

第1図    【第1図】  史跡上田城跡    

第2図 【第2図】  発掘調査範囲図(令和2年度・平成29年度)

第3図 【第3図】  発掘調査範囲近景(北から・令和2年度)

 藩主・仙石政明の頃に作成された「信州上田城絵図(1647年・いわゆる正保絵図)」ほかの絵図(第4図)によれば、当時、尼ケ淵の崖の上には土塁と土塀があったことが判ります。明治末年頃の絵葉書(第5図)に写る杉の巨木から、土塀は幕末には既に無くなっていた可能性があります。一方、土塁は大正時代に松平神社(眞田神社の前身)社務所の建設以前に一部が破壊されていたことが、平成29年度の発掘調査範囲(第2図)で判明しています。

第4図 【第4図】  仙石時代上田城及び城下町之図(上田市立博物館蔵)

第5図 【第5図】  本丸土塁跡に生長した杉の巨木(明治40年頃に撮影か)

 平成29年度の発掘調査では、地下80~90cm程の深さに、破壊されずに残った土塁の版築(叩き締めた固い土)が埋まっていました(第6図)。大正時代に社務所を造る以前に土砂を搬入し、平らな面を造成したようです。土砂には近代の瓦の破片が大量に混じっており、江戸時代の櫓の瓦も含まれることから、城内で調達した土と考えられます。1点だけですが、金箔瓦(鬼瓦か)の破片(第7図)も見つかっています。

第6図 【第6図】  平成29年度発掘調査の際の地下の状況

第7図 【第7図】  出土した金箔瓦の破片(平成29年度発掘調査)

 今回の発掘調査範囲は、令和2年7月に解体された土蔵があった場所とその周辺です(第8図)。古写真等の資料から、この土蔵は昭和7年から33年までの間に建てられたものとみられます。土蔵の解体に伴い、地下に土塁の痕跡が残っているかどうか、そしてそもそも土塁が真田井戸の南まで伸びていたのかを確認するために発掘調査を実施しました。

第8図 【第8図】  解体前の土蔵(令和2年撮影)

  発掘調査は埋もれた歴史を明らかにするという意味ではとても興味深いものです。しかし、一度発掘調査をしてしまうと、史跡は二度と元に戻すことが出来ません。史跡は国民共有の財産として文化庁が「保存」を目的として指定をするものです。そのため、発掘調査は必要最小限の範囲で行い、出来る限り現状のまま「保存」することが求められます。

  今回の調査では、まず、調査を計画した範囲(約25平方メートル)に、南北に2本のトレンチ(試掘溝)を掘って土層の堆積状況を確認し、必要な個所では平面的に掘り下げる計画としました(第9図)。

第9図 【第9図】  トレンチ調査に着手(令和3年3月10日)

  トレンチを掘り始めたところ、地下30cm程のところから、上田泥流層(第10図)が現れました。尼ケ淵の崖で見ることができる、厚さが8m以上ある黄土色の地層です。上田城跡の発掘調査では、この地層を「地山」と呼び、この地層が遺構(堀や石垣など)の掘り込みが及ぶ一番下の地層です。そのため、今回の発掘調査では、作業員さんが慎重に土を取り除き、上田泥流層の上面で遺構を確認しました。上田泥流層は崖に向かって少しずつ傾斜していました。本来であれば、この地層の上に「江戸時代の地面」がなければならないのですが、平成29年度の調査と同じく、確認することが出来ませんでした。上田泥流層の直上の土砂に近現代の瓦や陶磁器の破片(第11図)が混じっていたことから、近代以降、何らかの理由で地面をいったん上田泥流層まで掘り下げた後、再び土砂で埋め立てたものと思われます。その理由は明らかではありません。

第10図 【第10図】  上田泥流層が現れた(令和3年3月10日)

第11図 【第11図】  埋め立て土から出土した近現代の遺物(令和3年3月12日)

  トレンチ調査を進めていたところ、解体した土蔵の礎石より下に、別の石列・石積みが埋まっていることが判明しました(第12・13図)。そのため、今度は石列に沿って、東西に2本のトレンチを掘り、石列の状況を確認しました。見つかった石列や石積みは絵図や古写真には記録がない遺構であり、江戸時代のものである可能性も視野に入れ、慎重に調査を進めました。

 その結果、石列は割玉石を使用し、割った側を面(つら)として整然と一列に並べてありました。割玉石を用いていることから、近現代の遺構と判断しました。また、石積みも割玉石を使用し、割った側を面として2~3段の整然とした石積みとなっていました。石列と同様の理由で、近現代の遺構と判断しました。上田泥流層を掘り込んで根石を据えており、石材は控えが短く、介石を挟み込んでいるものの、裏込栗石が明確ではありませんでした。石積みは石列と直角に交わるように配置されていました。

 石列・石積みの裏側では上田泥流層を平らに削っているようにも見え、直上の土砂に近現代の瓦やガラス片が混入していたことから、いったん掘り込んだ後に土砂で再び埋め立てた状況と推定しました。また、一部で上田泥流層の直上に、川砂が薄く(2~3cmの厚さで)敷かれている状況も確認しました。石列や石積みの用途、土砂で埋め立てた理由については不明ですが、今後も情報収集を進めてまいります。

 なお、検出した石列と石積みは、近現代の遺構として大切に保存していくため、必要最小限の掘り下げと写真撮影等を行った後、埋め戻して現地で保存しました。

第12図 【第12図】  土蔵の礎石直下から検出された石列(令和3年3月15日)

第13図 【第13図】  検出された石積み(令和3年3月15日)

  以上の結果から、今回の発掘調査範囲には土塁は伸びていなかったと判断しました。その理由として、

 1、隣接する平成29年度発掘調査区では、地下80~90cmの深さから土塁の版築が検出されていますが、今回の調査区では北端で地下30cm、土蔵下で80cm程の深さで地山である上田泥流層に到達し、版築の痕跡が一切確認できなかったこと。

 2、ただし、1の結果のみでは、特に南端においては版築土を全て取り去ってしまった可能性もあります。しかし、調査区の崖縁に石塁(石垣?)があり、これが江戸時代のものであるとすると、土塁を設ける必要がないと考えられます。調査区南端付近では地下80cm程から上田泥流層が検出されたことは、平成29年度発掘調査の結果と類似しており、土塁や石塁(石垣)を設けた時には、発掘調査区周辺は現在よりも地面が低かった可能性も考えていいのかもしれません。

  今回の発掘調査の結果は、将来計画している本丸土塁・土塀の復元整備のデータとして活用してまいります。

第14図 【第14図】  発掘調査完了(令和3年3月16日)

第15図 【第15図】  石積み付近から出土した江戸時代の瓦(令和3年3月12日)

第16図 【第16図】 「父上の埋蔵金は見つかったかの?」(信州上田おもてなし武将隊の皆さん)

 

 

南・北櫓

史跡上田城跡の保存・整備計画を策定

 上田市では、史実に基づく上田城跡の復元整備を目指して、歴史の専門家や市民の皆さんなどで構成された「史跡上田城跡整備実施計画検討委員会」を設置し、平成2年度に策定した「史跡上田城跡整備基本計画」の再検討を行い、このたび上田城跡の保存・活用方針を定めた「保存管理計画」と櫓や武者溜りなどの復元方策を示した「整備基本計画〈改訂〉」の2つの計画を策定しました。
 この整備基本計画で優先して整備するとした、本丸櫓の復元と、交流・文化施設の建設に伴い移転が予定される市民会館跡地の整備および計画をお知らせします。

史跡上田城跡の保存・整備計画

 「史跡上田城跡保存管理計画」と「史跡上田城跡整備基本計画」は、以下のPDFファイルをご覧ください。
 以下のPDFファイルは容量が大きいので、ダウンロードしてからご覧ください。
 ダウンロードの方法:PDFファイルのリンクを右クリックして、「対象をファイルに保存」等を選択します。

1~2章 [PDFファイル/36.47MB]

3章 [PDFファイル/38.19MB]

4章 [PDFファイル/42.87MB]

4章(図4~図7) [PDFファイル/17.71MB]

資料編 [PDFファイル/34.42MB]

資料8、引用・参考文献、奥付 [PDFファイル/46.58MB]

史跡上田城跡保存管理計画の概要

 上田城跡を史跡として適切な姿で後世に引き継いでいくための方針や方法について定めました。

上田城跡を保存管理していくための方針

櫓門が復元された本丸東虎口

  • 櫓門が復元された本丸東虎口櫓・石垣・堀など、現存する遺構(いこう)の保存管理の方法を定めました。
  • 体育施設などは、将来的に史跡外への移転を目指しますが、移転可能になるまでは現状を維持します。
  • 桜の植栽が可能なゾーンを設けます。老木を維持し、上田城跡の桜の景観を保持します。
  • 史跡内の神社地、民有地は所有者の意向に配慮しながら公有化を進めます。

復元整備、工事、植栽などを行う場合の基準を明示

  • 櫓、武者溜りなどの復元整備は史実に忠実となるよう実施します。
  • 史跡内では復元整備に関するものを除き、新たな建造物などの設置は原則として認めないこととします。

整備・活用の基本方針と方法

  • 櫓や武者溜りなどの復元整備を推進します。
  • 市民や観光客に親しまれる史跡となるよう努めます。
  • 各種イベントの開催や江戸時代から残る希少樹木の保護など、市民協働での史跡の保存活用を推進します。

保存管理および整備活用の体制

史跡関係者と関連部局が相互に連携して保存活用に取り組む体制を構築します。

三の丸の上田城関連遺構等の保護

三の丸区域に所在する上田藩主居館跡(現上田高等学校)、御作事場(現清明小学校)などの上田城跡関連遺構の保護に努めます。

史跡上田城跡整備基本計画の概要

優先して整備する計画とした上田城の東虎口一帯優先して整備する計画とした上田城の東虎口一帯
 平成2年度策定の整備基本計画で設定した中期・長期の整備目標のうち、未実施事業を短期整備目標(概ね10年以内での実施予定)として再設定し、城の正面である本丸および二の丸東虎口周辺を優先的・集中的に整備することとしました。また、上田城跡の桜の景観維持や園路舗装などのバリアフリー化については利用者の声を反映させました。

将来整備構想図

将来整備構想図の画像
将来整備構想図[PDFファイル/5.0MB]

本丸櫓の早期復元を目指します

隅櫓を描いた絵図隅櫓を描いた絵図
 真田信之に続いて上田藩主となった仙石忠政(せんごくただまさ)は、破却された上田城を復興します。古絵図により、本丸には7棟の櫓があったことが分かっています。明治の払い下げの際にほとんどの櫓は解体されましたが、唯一西櫓は解体を免れて現存しています。また、北櫓と南櫓は、城外に移築されて貸座敷になっていたものが市民の寄附により買い戻され、昭和24年に再移築されたものです。
 今回の計画改訂では、失われた4棟の櫓のうち東北隅にあった2棟とその周辺の土塀の復元整備を優先して進めていくこととしました。上田城の城郭構造を体感できるように、武者溜りと合わせ本丸と二の丸東虎口一帯を復元する計画です。

市民会館跡地の整備を進めます

 市では、上田市交流・文化施設の建設に合わせ、市民会館を解体し、跡地を史跡本来の姿に復元する方針で、史跡上田城跡整備検討委員会や文化庁などとの話し合いを進めています。
武者溜りを描いた絵図武者溜りを描いた絵図
 市民会館と駐車場付近は、江戸時代の絵図によると「武者溜り」と呼ばれる3メートル程の高い石垣や土塁に囲まれた広場でした。また、広場の北側に隣接し「三十間堀」と呼ばれた長方形の堀(長さ約50メートル)があり、上田城が誇る堅固な防御施設が多く設けられたー帯でした。
 計画改訂では、市民会館跡地への武者溜り整備の目標を掲げ、併せて市民の憩いの場、観光拠点としての利便性も考慮して整備していく方針を定めました。今後更に具体的な整備方法を検討していきます。

上田城復元に向けて古写真・絵図を探しています

 市では写真が残っている可能性がある、幕末の上田城の姿を復元することを目指して、これまで東虎口櫓門の復元や石垣の修復などを実施してきました。ただ、櫓の復元については、大きさや外観の分析資料とするための写真や絵図が不足しています。些細なことでも構いませんので、生涯学習・文化財課まで情報提供をお願いします。

特に提供いただきたい情報

  • 櫓が写っている古い写真(明治初期)
  • 櫓の高さが書き込まれた絵図
  • 櫓の立面図
  • 上田城跡内で撮影した写真(明治末期まで)
  • 櫓などの建物の移転先についての情報

現在までに分かっている情報

 幕末に海外から写真撮影の技術がもたらされ、やがて各地でお城や城主の写真などが撮影されるようになります。最後の上田藩主・松平忠礼も、自らの姿を何枚かの写真に残しています(参考:上田城の歴史エピソード2「最後の藩主・松平忠礼」)。しかし残念なことに、当時の上田城内を撮影した写真は、下の東虎口櫓門を写した1枚を除き、ほとんど知られていません。
明治8年に払い下げとなり、取り壊しが進んでいた頃の上田城の写真明治8年に払い下げとなり、取り壊しが進んでいた頃の上田城。

この写真が基になって現在の櫓門が復元された。上の写真は現在知られている上田城の写真の中では最も古いもので、明治10年(1877)頃に撮影されたものと考えられています。撮影者が不明で、誰がこの写真を撮ったのかという点について、多くの研究者が調査してきました。
 「広報うえだ」での古写真提供の呼びかけに、「これと同じ写真が我が家にもある」と、何人かの方から連絡をいただきました。入手した経過を伺うと、「最後の藩主・松平家からいただいた」ということです。
 この写真の撮影者は未だ明らかではないのですが、幕末から明治にかけて、上田藩の役人に大野木左門という写真の撮影・現像に詳しい人物がいたようです。
 また、上田で最初に写真館を開業した田中鼎蔵(たなかていぞう)(1836~1913)という人物もいました。これまでの調査で、明治9年に田中が撮影した写真が発見されました。後年、田中は現在の駒ヶ根市に移り住み、田中亭山(たなかていざん)という名で画家として活躍します。田中が上田を離れた時期はよく分かりませんが、少なくとも、明治9年には上田で写真師をしていたことが明らかになりました。このことから、右の写真が明治10年頃撮影されたものだとすれば、撮影者は田中である可能性もあります。
 なお、この写真は明治11年9月に明治天皇が上田に来られたときに、画像を印画紙に焼き付けたものが献上されていて、これ以前に撮影されたものであることが分かります。また、横浜で外国人向けの土産として販売されたため、イタリアなど外国でも発見されています。

櫓と武者溜りの復元

享保年代の上田城の絵図享保年代の上田城の絵図。七つの櫓が描かれている。
 7棟あった本丸の櫓は、現存する3棟を除く、明治10年頃に解体された四つの櫓のうち、本丸の鬼門除けの位置(北東)にあった櫓2棟から復元する計画で、現在、必要な資料などの調査収集を進めています。しかし、復元に必要な櫓に関する古い図面や写真は、残念ながら見つかっていません。今後、こうした資料を探しつつ、現存する櫓を参考に復元が可能かどうかなど、さらに研究を進めていきます。

ふるさと寄附金にご協力をお願いします

 ふるさと寄附金(納税)制度は、自治体に寄附した場合、寄附金額のうち2,000円を超える部分について、お住まいの自治体の個人住民税と、所得税の控除が受けられる制度です。上田城の早期復元に向けて皆様の寄附をお願いいたします。

寄附の手続き

 ふるさと寄附金を希望される方は、寄附申出書に必要事項をご記入のうえ、生涯学習・文化財課に提出ください。申出書受付後、納付書をお送りします。
 また、上田市ホームページからのお申し込みも可能です。詳しくは、ふるさと寄附金のご案内をご覧ください。

広報うえだ・上田市行政チャンネルをご覧ください

 史跡上田城の保存・整備計画については、広報うえだ平成24年8月1日号、上田市行政チャンネル「ようこそ市長室へ」でご覧いただけます。

広報うえだ

平成24年8月1日号[PDFファイル/7.9MB]

関連情報

Adobe Reader<外部リンク>

PDF形式のファイルをご覧いただく場合には、Adobe社が提供するAdobe Readerが必要です。
Adobe Readerをお持ちでない方は、バナーのリンク先からダウンロードしてください。(無料)