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エピソード1 「上田城の謎 天守閣」

更新日:2019年12月12日
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 上田城に天守閣はあったのか

 天正11年(1583)に真田昌幸が築城を始めた上田城は、同13年9月頃には城の形がほぼ完成していたようです。しかし、関ヶ原の合戦後、徳川幕府は上田城を跡形もなく破壊し、昌幸・幸村親子を高野山(和歌山県)に追放しました。昌幸の後、城を引き継いだ長男・信之は、城を修復せず、現在の上田高校や清明小学校の敷地に屋敷を建てて藩政を行いました。
 次の城主・仙石忠政は破壊されたままになっていた上田城の修復にとりかかりました。現在でも西櫓や石垣の一部は、忠政が修復した当時の姿で残っています。本丸に七つの櫓と二つの櫓門を造った忠政が病死し、二の丸の櫓や門などは造られないままとなり、天守閣も建てられなかったことが古文書などから判明しています。
 金箔瓦の破片
発見された金箔瓦の破片では、真田昌幸の上田城に天守閣はあったのでしょうか。残念ですが、確たる証拠が無く、現状では何とも言えません。ただ、昌幸の城が豪華絢爛(ごうかけんらん)だったことを示す証拠として、昭和2年の市営野球場新設工事の際に、昌幸の時代の瓦と思われる、金箔(きんぱく)を表面に貼った瓦が城跡から発見されています。その後、発掘調査などで金箔瓦が数点発見されており、豪華な金色の鯱(しゃち)瓦などを屋根に載せた建物があったのは間違いないようです。
 金箔瓦は安土桃山時代に特有の瓦で、安土城や大坂城など、織田信長や豊臣秀吉の城に見られ、地方の城ではあまり例がありません。これほどの豪華な瓦が屋根に載っていた建物は、上田城を代表するものだったはずです。真田昌幸が上田城を造ったのと同じ頃に建てられた、松本城や諏訪高島城などには立派な天守閣があり、上田城にだけ無かったと考えるのは無理がありそうです。しかし、これらを天守閣があった証拠だと断定するには絵図面や古文書などの史料が少なく、慎重にならざるを得ません。昌幸の頃の上田城の解明については、今後も調査研究が必要です。

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