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上田城の歴史

更新日:2019年12月12日
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上田のシンボル上田城の歴史

春の上田城春の上田城 春の千本桜まつりや、秋のけやき並木紅葉まつりが行われる上田城は、多くの観光客や市民でにぎわいます。また、年間を通じて市民の憩いの場となっています。
 上田のシンボルである上田城は、現在では全国的に人気のある真田氏が、最初に築城しました。本ページでは、真田氏の築城から現在に至るまでの上田城の歴史をご紹介します。
 なお、このページは、広報うえだ平成22年10月号の特集「夢に向かって上田城復元プロジェクト」および、平成23年12月号~平成24年3月号に掲載された「シリーズ上田城の歴史」に加筆修正したものです。また、この広報うえだ記事中の「上田城の古い写真や絵図を探しています」という呼びかけでいただいた情報や写真も掲載しています。

真田氏の築城から江戸時代までの上田城

 真田昌幸が上田城を築き始めたのは、天正11年(1583)のことです。当時は、更埴地方までが越後の上杉景勝、佐久郡までが関東の徳川家康の勢力下でした。当時、家康に臣属していた昌幸は、家康の援助を受けて上田城の築城を始めます。
 しかし、豊臣秀吉に対して背後の守りを固めるため、小田原の北条氏直と手を組もうとする徳川家康から、上州沼田領を北条方に譲るように命じられた昌幸は、これを拒絶します。これにより、徳川と断交した昌幸は、徳川軍の攻撃に備え、次男・幸村を上杉方に人質として差し出し、上杉景勝に築城とその他の援助を求めます。
 そして、天正13年(1585)8月に徳川軍が7,000人余の大軍で、上田城を攻撃します。しかし昌幸は巧みな戦略を用いて、わずか2,000人足らずでこれを撃退します。この第一次上田合戦に際しては、上田城の普請が上杉方の多くの武将を動員して行われています。そして、天正13年の9月に、上田城は一応の完成をみます。このように築城の過程で昌幸が臣属先を変えたため、徳川からも上杉からも援助を受け、上田城はわずか2年半程で完成しました(参考:エピソード1「上田城の謎天守閣」)。
錦絵真田父子上田籠城図。第二次上田合戦の様子を描いた明治初期の錦絵。(上田市立博物館所蔵) 

 

この後は、豊臣秀吉が天下を統一し、しばらく動乱は治まりますが、慶長5年(1600)に関ケ原の戦いが起こります。秀吉没後の覇権を、徳川家康と石田三成が争ったこの戦いで、昌幸と次男の幸村は石田方に、長男の信之は徳川方に別れて戦うことになります。
 石田方についた昌幸と幸村は、上田城に立てこもり、東山道を西上する徳川秀忠軍3万8000人に対して、わずか2500人で籠城(ろうじょう)戦を行います。
 この第二次上田合戦では、徳川秀忠軍は、7日間上田に釘(くぎ)づけとなり、関ケ原での石田三成との決戦に間に合わず、家康の激怒をかっています。しかし関ケ原の戦いは、石田方の敗北に終わり、昌幸と幸村は、九度山(和歌山県)に幽閉されます。
 そして、徳川方に接収された上田城は一度破壊されます。堀を埋めて、塀を壊し、櫓(やぐら)などの建物はいうまでもなく壊され、廃城となりました。その後、上田領を家康から与えられた長男の信之が引き継ぐことになります。

 信之は廃城となった城の中心部を避けて、現在の上田高校の位置に屋敷をかまえて藩政を行います。この屋敷は、後に上田藩主となる仙石氏、松平氏も引き続き藩主邸とします。上田城が戦いのために存在したのは、関ケ原まででした。
 こうして、まったくの廃城となっていた上田城ですが、元和8年(1622)に幕命により、真田信之が松代へ領地替えとなり、仙石忠政が小諸から新領主として上田に入ります。
 そして、幕府の許可を得て、寛永3年(1626)より上田城の復興に取り掛かります。忠政は、埋め立てられていた堀を再び堀り上げ、石垣を積み、櫓を再建します。そして、本丸の土居(土塁)や石垣の上に櫓と塀ができて、明治維新まで続く上田城の姿が復興されます。その後、宝永3年(1706)に上田城主は、仙石氏から松平氏へと交代し、明治維新までの160年余の間、松平氏が治めます(参考:エピソード2「最後の藩主・松平忠礼」)。その間に何度か修復工事は行われていますが、ほとんどが小規模な修復工事です。
 明治の廃城前の上田城は、松・杉の大木や竹がうっそうと生い茂る場所で、建物は櫓や土蔵くらいしかなく、城の番人がいるのみの状況でした。そのため、格好の鳥のねぐらだったようです(詳しくはエピソード7「桜の名所・花の上田公園」)。

明治・大正・昭和へと激動の時代の上田城

明治時代の写真。明治時代の写真。現在の櫓門と南北櫓の建つ場所に櫓がなく、奥に見えるのが西櫓。 

 

明治維新後の明治4~6年までは、上田城は陸軍の東京鎮台第二分営となりますが、この廃止に併い明治8年に上田城は、本丸・二の丸の土地・建物・樹木まで一切の払い下げが許可となります(詳しくはエピソード3「売りに出された城」)。
 明治6年12月に作成された払い下げに関する資料では、本丸にあった櫓の払い下げ予定価格は、1棟12円50銭でした。しかし、入札価格はこれに達しないで、1棟わずか6円で分売されたとも伝えられます。こうして、現在も残る西櫓1棟を残して、他の櫓は払い下げられてしまいます(詳しくはエピソード4「櫓の歴史」)。
 払い下げられた樹木は、人の目の高さの位置で、周囲75センチメートル以上、太いものは270センチメートルにも及ぶ松と杉、合計950本が払い下げの対象になっています。このことからも、少なくとも江戸時代中期以降の上田城内は、木々の生い茂るうっそうとした場所であったことが分かります。
明治後期から大正初期の西櫓の写真。
明治後期から大正初期の西櫓の写真。仙石氏の時代から移動していないのは、西櫓のみ。

 

その後、明治12年に本丸内に松平神社(現・真田神社)をつくり、残りの地を公園として城址(じょうし)を保存しようという声が起こります。これにより、本丸の大部分を所有していた丸山平八郎氏が、まず南側の地を神社用に、ついで明治18年に残りの地を公園用に寄付します。これが上田城の公園化への第一歩になります(詳しくはエピソード5「本丸にできた上田公園」)。
 二の丸については、大部分が桑畑になっていましたが、明治18年に東側の現市立博物館のあたりに、高い土塀をめぐらした監獄ができます(詳しくはエピソード6「二の丸にあった監獄」)。当時は監獄のトイレのし尿をそのまま本丸の堀に流していました。
 松や杉が伐採された後、本丸には多くの梅や桜が植えられ、明治40年頃には花の名所になっていました(詳しくはエピソード7「桜の名所・花の上田公園」)。
二の丸橋の工事写真。
大正末から昭和2年ころと推定される二の丸橋の工事。右側に見える門が刑務所。左に見える屋根は上田市公会堂。

 

 その後、大正12年には現市民会館の地に上田市公会堂が建設されました(詳しくはエピソード8「市民の寄付でできた公会堂」)。大正13年から昭和3年にかけて、上田市により二の丸の地の買い上げが進められ、監獄も移転します。昭和2年には、二の丸の堀だったところに真田方面行きの電車の線路が敷設されました(詳しくはエピソード9「電車が通ったお堀」)。これらと並行して児童遊園地、テニスコート、野球場、陸上競技場などの設置が進められます(詳しくはエピソード10「巨大な堀だった陸上競技場」)。
 城跡公園内に動物園が設けられた例は、全国的に多く見られます。上田城跡にも戦前に動物園が造られ、昭和25年には二の丸の児童遊園地に動物園が復活しました(詳しくはエピソード11「クマやシカがいた公園」)。昭和40年代までは、堀でスケートを楽しむことができ、魚釣り大会も開催されました(詳しくはエピソード12「市民の憩いの場となった公園」)。このように、廃城となった上田城は史跡公園として整備され、市民の憩いの場として生まれ変わりました。
櫓門と隅櫓。この写真が基になって現在の櫓門が復元。明治7年に払い下げとなり、取り壊しが進んでいたころの本丸東虎口の櫓門と隅櫓。この写真が基になって現在の櫓門が復元された。

 

平成6年3月には、上田城跡の本丸に待望の櫓門が、約110年ぶりに復元されました(詳しくはエピソード13「復元された櫓門」)。上田市では、交流・文化施設の建設に合わせ、市民会館を解体し、櫓と武者溜(だま)りを復元する方針で、必要な資料の収集を進めています。現在のところ、復元に必要な資料は見つかっていませんが、こうした資料を探しつつ、復元に向けて取り組んでいます(詳しくは上田城の復元)。

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