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整備・復元

更新日:2024年5月1日更新
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整備・復元

1発掘調査

2上田城の復元資料収集

3上田城の復元に向けた取組

上田城の整備・復元について

上田城は天正11年(1583)に築城が開始され、完成後は真田昌幸が城主となりました。その後徳川軍によって2度攻撃されるも落城しませんでしたが、
慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後に昌幸・信繁父子が九度山(和歌山県)に幽閉されると上田城は建物は壊され、堀なども埋められる「破城」が行われます。

江戸時代になり、上田藩主となった仙石忠政は破城された上田城の復興に着手します。復興された本丸には7つの櫓と2つの櫓門、土塀等があったことが絵図から分かっています。

その後、明治時代になり役目を終えた上田城は建物や石垣の多くが解体されます。現在残るものは、唯一解体を免れた西櫓、一度は城外に移築されたものの市民の寄附により買い戻され昭和24年に再移築された北櫓と南櫓、平成6年に復元された東虎口櫓門となります。

こうした中、上田市では江戸時代の上田城をより多くの皆さんにイメージしていただけるように、仙石忠政が建てた本丸7つ櫓のうち現在残っていない4つの櫓と櫓門、城を守るための兵を駐留させる「武捨溜り」等の復元を目指し、整備や各種取り組みを進めています。詳細は計画について

城下町の図

画像 仙石時代 上田城及び城下町之図 上田市立博物館蔵

 

史跡上田城跡の発掘調査について

現在の旧市民会館や駐車場一体は江戸時代に「武者溜り」と呼ばれる空間があったことが資料からわかっています。その周辺に築かれていた石垣や土塁の痕跡を確認するため、発掘調査を実施しています。

発掘

上田城復元資料収集事業

上田城は国の史跡であるため、復元等を含む整備については、文化庁の許可が必要となります。現在の基準では、復元にあたっては、その根拠となる資料として櫓の形が確実に分かる古写真や図面等が必要です。しかし、上田城では複数残されている絵図で7つ櫓や櫓門、土塀があったことが確認できますが、現在残っている南櫓・北櫓・西櫓以外の写真や図面が見つかっていないことから、広く資料の募集を行っています。

特に提供いただきたい情報

  • 櫓が写っている古い写真(明治初期)
  • 櫓の高さが書き込まれた絵図
  • 櫓の立面図
  • 上田城跡内で撮影した写真(明治末期まで)
  • 櫓などの建物の移転先についての情報

上田城復元資料収集懸賞金事業

上田城復元の根拠となる資料(古写真、古文書、絵図、図面など)を御提供いただいた方に、懸賞金最大500万円をお支払いする事業を実施しています。

懸賞金

現在までに分かっている情報

 幕末に海外から写真撮影の技術がもたらされ、やがて各地でお城や城主の写真などが撮影されるようになります。最後の上田藩主・松平忠礼も、自らの姿を何枚かの写真に残しています(参考:上田城の歴史エピソード2「最後の藩主・松平忠礼」)。しかし残念なことに、当時の上田城内を撮影した写真は、下の東虎口櫓門を写した1枚を除き、ほとんど知られていません。
明治時代の上田城の古写真明治8年に払い下げとなり、取り壊しが進んでいた頃の上田城。

 この写真は本丸東虎口櫓門の復元のもとになったもので、現在知られている上田城の写真の中では最も古いものになります。明治11年(1877)9月に明治天皇が北陸巡幸で上田にご宿泊された際に撮影され、随行した「山際長太郎」「古賀 暁」のいずれかの写真師の手によるものと考えられます。二人は明治5年に天皇が九州を巡幸された際に熊本城跡などを撮影した「内田九一」という著名な写真師の門弟になります。この上田城の写真は現在でも宮内庁に大切に保管されています(宮内庁書陵部ホームページ『北陸東海両道写真』12/101 「長野県下上田駅旧上田本城大手斜之図」 宮内庁書陵部図書寮文庫蔵)。

 令和5年度から取り組んでいる懸賞金をかけた資料収集では、何点か同様の本丸東虎口の画像について情報がありました。入手された経過を伺うと、「最後の藩主・松平家からいただいたと聞いている」という話がほとんどで、昭和50年代まではこうした形で、市内ではこの写真がやり取りされていたことが推察されます。

 上田城の南櫓が既に解体されてから撮影された、いかにも記録写真というべきものですが、「横浜写真」という、横浜港から帰国する外国人の皆さんがお土産として好んで購入する、日本の風景や建物、人々の生活を撮影したアルバムの1ページとして転用されるなど、横浜周辺ではかなり流通していたものと思われ、実際にオランダやイタリアでこの上田城の古写真が見つかっています。

 一方、地元の上田周辺では昭和初期になっても絵葉書に印刷されるなどされ、複写を繰り返して画質が悪くなったものを目にする機会がたくさんあります。また、後述する上田連歌町の大石良義(大石写真館)も明治の早い時期にこの写真を複写して販売するなどしており、地元で流通していたことがうかがえます。

 多くの皆さんの協力で、この写真の詳細について判明しつつありますが、「山際長太郎」「古賀 暁」の二人の写真師が他にも上田城跡を撮影していないか、今後も注視すべきところです。

 上田周辺に目を向けてみると、幕末の上田藩の役人に大野木左門という写真など西洋の科学技術の研究に従事していた人がいます。また、上田で最初に写真撮影を業としたのは、旧藩士の田中鼎蔵(1836~1913)だと考えられており、これまでの調査で、明治9年に田中が撮影した写真と思われるものが見つかっています。後年、田中は現在の長野県駒ケ根市に移り住み、田中亭山という名で画家として活躍しました。田中が上田を離れた時期は明確には判明していませんが、少なくとも明治9年に上田で写真師をしていたことは間違いなさそうです。他にも明治初期には大石良義(大石写真館)や松岡金作(好子堂)などといった写真師が営業していました。上田城の古写真を探求するうえで、上田在住の写真師の動向も注目すべきところです。

 

上田城の復元に向けた取り組み

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