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レイラインがつなぐ「太陽と大地の聖地」~龍と生きるまち 信州上田・塩田平~のタイトル画像 レイラインがつなぐ「太陽と大地の聖地」~龍と生きるまち 信州上田・塩田平~

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構成文化財一覧

更新日:2023年12月19日更新
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構成文化財マップ

認定ストーリー及び構成文化財一覧表

番号

ふりがな
文化財の名称

指定等の状況

ストーリーの中の位置づけ

参考画像

1

安楽寺八角三重塔(あんらくじはっかくさんじゅうのとう)

国宝

中国から伝わった「禅宗様」で造られた、現存する日本唯一の木造八角三重塔で、長野県の「国宝第一号」。かつては「四重塔」とされたが、現在は一番下の屋根は裳階(ひさし)と解釈されている。禅宗寺院であるにも関わらず一層内部に大日如来像が安置されており、太陽信仰との関連をうかがわせる。

創建は1290年代とされ、八角形のどっしりとした落ち着きがある塔で、頂上には相輪が青天高くそびえている。屋根の下の華やかな木組みも相まって、安定感と崇高美、華麗さを兼ね備えた、天下の名塔である。

安楽寺八角三重塔の写真

2

木造惟仙和尚坐像(もくぞういせんおしょうざぞう)・

木造恵仁和尚坐像(もくぞうえにんおしょうざぞう)

国重文

安楽寺の創立は慈覚大師ともいい、宗派は天台あるいは律宗とも考えられている。その後、信濃出身の僧・樵谷惟仙が臨済寺院として中興開山した (現在は曹洞宗)。境内の伝芳堂に、惟仙と開山二世幼牛恵仁の等身大の僧侶の椅像「頂相」が並んで祀られている。没後、弟子たちがその徳を慕い造立したもので、安楽寺が鎌倉と同水準の禅宗文化を受容し、「信州の学海」として、修行僧を多数輩出していたことがうかがえる。

木造惟仙和尚坐像と木造恵仁和尚坐像の写真

3

常楽寺本堂(じょうらくじほんどう)

市建造物

天台宗別格本山。平安時代初めに慈覚大師が開創と伝え、樵谷惟僊をはじめ、多くの青年僧が学んだ「信州の学海」を支えた寺院として名高い。

本堂は寄棟造、茅葺の建物で、江戸時代中期後半の建築で、本尊は大日如来の五つの智慧を表す五智如来の一尊である妙観察智阿弥陀如来である。

常楽寺本堂

4

常楽寺石造多宝塔(じょうらくじせきぞうたほうとう)

国重文

石造多宝塔は弘長2年(1262年)の作で、総高274.0cmの重厚で堂々とした風格や造り方は鎌倉期多宝塔の優品。塔が建てられている所は、北向観音の出現地といい、境内でもっとも神聖な場所とされる。

多宝塔は大日如来を具現化したものとされ、太陽信仰の一端をも垣間見ることができる。

常楽寺石造多宝塔の写真

5

北向観音堂(きたむきかんのんどう)

未指定

(建造物)

平安時代初期に比叡山延暦寺座主慈覚大師円仁が開いた霊場。北向きの本堂(本尊は千手観音菩薩像)は全国でもほとんど例が無く、南向きの善光寺本堂と相対している。「極楽往生」を願う善光寺と「両参り」し、ここで「現世利益」を祈ることで、御利益があるとされる。

かつて参道脇に長楽寺(常楽寺、安楽寺とともに天台宗の「別所三楽寺」のひとつ)があったが、現在は常楽寺を本坊とする。昭和36年(1961年)に善光寺本堂と同じく、「撞木造り」の建物として増改築された。なお、手水舎には境内から湧出している温泉が使われている。

北向観音堂の写真

6

善光寺地震絵馬(ぜんこうじじしんえま)

未指定

(有形民俗文化財)

「善光寺だけでは片参り」のいわれを伝える絵馬。北向観音で厄除札を受けた後、善光寺御開帳に向かった尾張の市之助が、門前宿で弘化4年(1847年)の善光寺地震に遭遇した際に、北向観音で受けたお札が身代わりになってくれたおかげで、災難を逃れたという伝説を描いている。

善光寺地震絵馬の写真

7

愛染カツラ(あいぜんかつら)

(別所五木(べっしょごぼく))

市天然記念物

(未指定)

 (天然記念物)

神仏が姿を現した「影向の桂」といわれる霊木で、目通り幹囲5.8mの太さがある。ハート形の葉が珍しく、故川口松太郎原作の日活映画『愛染かつら』のモデルとなり、今でも縁結びの霊木として老若男女に親しまれている。

別所温泉には他に、北向観音の夫婦杉〈夫婦円満〉、薬師堂のねじり紅葉〈素直な心〉、常楽寺の御船の松〈極楽浄土に導く〉、安楽寺の高野槇〈希望〉の霊木があり、「別所五木」と呼ばれて親しまれている。

愛染カツラの写真
8 舞田の石造五輪塔(まいたのせきぞうごりんとう) 県宝石造物

五輪塔は、はじめ大日如来を尊ぶことから造られたといい、その後、身分が高い人の供養塔として用いられるようになった。総高212cmの鎌倉時代の五輪塔の優品で、塩田平にたくさんある石造文化財の中でもひときわ目立つ雄大な塔だ。

地輪、水輪、火輪、風輪、空輪からなり、本例は風・空輪が一石で造られている。水輪には梵字「バン」(大日如来)が刻まれている。各部材の様式等からみて、鎌倉初期の建立と推定されている。

文治2年(1186年)この地に金王庵を創建した渋谷土佐入道昌順の墓塔と伝えられている。

舞田の石造五輪塔の写真

9

前山寺三重塔(ぜんさんじさんじゅうのとう)

国重文

前山寺は塩田城の祈願寺と伝えられ、本尊は大日如来。三重塔は室町時代初期の造立とされ、初層と二層に掲げられた大日如来の額で金剛界五仏を表す。二層・三層目の匂欄が未完成であるにも関わらず、何の不調和感もなく、「未完成の完成塔」と絶賛される。荘厳な九輪の下、杮葺きの屋根が重なり合った美しい曲線が四季の山色に映え、その姿は、名塔の誉れを欲しいままにしている。

真言宗の「信濃の四談林」のひとつであり、三楽寺とともに「信州の学海」としての役割を担った。

前山寺三重塔の写真

10

ちがい石とその産地(ちがいいしとそのさんち)

市天然記念物

「ちがい石」は、2つの中性長石がX形に交わって晶出した鉱物で、ここ弘法山でしか産出しない。「誓い石」とも呼ばれ、弘法大師空海が「大切に保持すれば災厄から免れさせる」ことを誓ったという伝説を秘める。

ちがい石の写真

11

西光寺阿弥陀堂(さいこうじあみだどう)

県宝建造物

弘法大師空海が大日如来像・阿弥陀如来像を彫刻し、小堂を建てたのが開創と伝え、鎌倉時代に塩田北条氏が開基となり、足利から実勝和尚を招いて開山とした。阿弥陀堂は室町後期の寄棟造の建物で、飾らないこけら葺きのシルエットが美しい。

西光寺阿弥陀堂の写真

12

中禅寺薬師堂(ちゅうぜんじやくしどう)

国重文

約800年前に建物と推定される中部日本最古の木造建築で、塩田平に仏教文化が根付いた時期を示すものだ。

宝形造の素朴な茅葺屋根と青空とのコントラストが美しい。薬師如来像を祀る「薬師堂」であるが、「方三間の阿弥陀堂」形式の不思議な建物だ。

中禅寺薬師堂の写真

13

中禅寺木造薬師如来坐像(ちゅうぜんじもくぞうやくしにょらいざぞう)

国重文

薬師堂の本尊で、平安時代後期(藤原期)の「定朝様」に進取の鎌倉様式を取り入れた、いわゆる「藤末鎌初」の仏像。像高は97.8cmで、その台座(受座)には流鏑馬を描いた墨書戯画が見られる。塩田平に鎌倉から流入した仏教文化の影響を示す作品である。

中禅寺木造薬師如来座像の写真

14

中禅寺木造金剛力士像(ちゅうぜんじもくぞうこんごうりきしぞう)

県宝彫刻

薬師堂仁王門に安置された、平安時代末の信州最古の金剛力士像。寄木造で像高207cmのやや小振りの像だ。制作時期は薬師堂本尊とほぼ同じとみられ、この像から、当時、中禅寺が進取の様式により伽藍を整えていたことがうかがえよう。

中禅寺木造金剛力士像の写真

15

前山塩野神社拝殿及び本殿

(まえやましおのじんじゃはいでんおよびほんでん)

市建造物

「延喜式」等に載る古社で、独鈷山の北麓に鎮座し、かつては山上の鷲岩という巨岩に祀られていたという。

棟札から、拝殿は寛保3年(1743年)のものとみられ、二階建ての「楼門造り」という珍しい建物だ。また、本殿は寛延3年(1750年)の建築と考えられ、「一間社流れ造り」の様式で、見事な龍の彫刻が目を引く。

神が降る岩「磐座」と境内を流れる塩野川は、異空間に迷い込んだような錯覚を覚えさせる。

前山塩野神社の写真

16

法住寺虚空蔵堂附厨子

(ほうじゅうじこくぞうどうつけたりずし)

国重文

平安時代に創建されたと伝える天台宗の古刹。独鈷山を主峰とする虚空蔵信仰の山麓寺院(南麓)として捉えられる。堂全体は「和様」で造られているが、懸魚などには「禅宗様」の要素も見られ、室町時代中頃に造られた建物と考えられる。

厨子の時代はお堂と同じ頃と考えられ、方一間入母屋造という禅宗様式独特の方式で造られている。中には虚空蔵菩薩坐像(室町時代・寄木造・像高45.4cm)が安置されている。

法住寺虚空蔵堂附厨子

17

別所温泉の岳の幟行事(べっしょおんせんのたけののぼりぎょうじ)

国選択無形民俗文化財

永正元年(1504年)に大旱魃に苦しんだ農民が、雨の神様に貴重な反物をささげて祈ったことが始まりとされ、嘉永2年(1849年)「善光寺道名所図会」にも記される雨乞いのまつりである。

本来は7月15日が祭日であるが、現在はそれに近い日曜日に行う。天に昇る龍を象った幟は、長さ約6mの青竹竿に赤・青・黄などの色鮮やかな布が取り付けられている。

夫神岳の頂上に祀られた「龗”オカミ”」九頭龍神の祠で住民代表が神事を行った後、降り龍の幟を先頭に70本もの幟が山を下る。麓で別所神社の神主総代や三頭獅子とささら踊りの一行と合流して温泉街を一巡する。

平成10年(1998年)に開催された長野冬季オリンピックの閉会式会場でも披露された。

別所温泉の岳の幟行事の写真

18

別所神社本殿(神楽殿 本朝縁結大神祠)

 

(べっしょじんじゃほんでん(かぐらでんほんちょうえんむすびおおかみのほこら))

市建造物

(未指定)

建造物

(未指定)

建造物

別所温泉の北方、塩田平をはじめ遠く浅間連峰が望める小高い丘にある産土神。岳の幟行事の終着地である。

建物は天明8年(1788年)のものと思われ、安楽寺の山門など、塩田平の寺社建築に多くの優れた作品を残した、上田房山の末野一族の手によるもの。

なお、境内の立派な神楽殿や、本殿の背に祀られる「本朝縁結大神」なども貴重な文化財だ。

別所神社本殿

19

鞍が淵と蛇骨石(くらがふちとじゃこついし)

未指定

(名勝・天然記念物)

鞍が淵の名は、独鈷山から落下した2つの大岩が折り重なって鞍のように見えることが由来だ。岩の間を流れる産川が造る淵には、かつて大蛇が住んでいたという。周辺で採取される蛇骨石(灰沸石)は独鈷山の岩石に含まれる鉱物で、色と形がヘビの骨に似ていることからこの名がある。

「小泉小太郎」とは、大蛇を母とする大柄な男の子で、産川(鞍が淵)は小太郎が産み落とされた場所。この伝説は、大蛇は水の神であり、産川の源である独鈷山が水神として崇められていたことをうかがわせる。小泉小太郎伝説は、松谷みよ子の「龍の子太郎」のモデルとなった。

鞍が淵の写真

蛇骨石

20

千駄焚き(せんだだき)・百八手(ひゃくはって)

未指定

(無形民俗文化財)

日照りの年に、山頂やため池の土手で、松明を点したり、藁の束などに火をつけ、「雨降らせタンマイナ」と唱える雨乞いの習俗である。祈りの方法は集落やため池ごとに、若干の違いがある。

千駄焚き・百八手の写真

21

奈良尾石造大姥坐像(ならおせきぞうおおばざぞう)

市彫刻

大旱魃の際に、富士嶽で雨乞いをしたところ、忽ちのうちに雨が降ったので、御礼として、寛正7年(1466年)に造られたものという。その後、「祈りのかたち」は、この石像に願掛けをした千駄焚きや、石像を池の中に放り込むなどに変化した。祈りの言葉はここでも「雨降らせタンマイナ」だ。

怖い顔に反して「大姥さま」と親しみを込めて呼ばれる像は、写実的で迫力を感じる見事な石像である。

奈良尾石造大姥坐像

22

保野の祇園祭(ほやのぎおんさい)

市指定無形民俗文化財

保野の集落は、中世には三斎市が立った塩田平の経済を支えた場所として知られる。保野塩野神社の祇園祭は、大凶作でまつりを休んだところ、疫病が大流行したため、その後は凶作でも休まずに続けてきた。

仮宮の市神に移られたお旅所前と、翌日午後に本社に帰られた広庭で、早乙女の揃い姿で踊るささら子の踊りと天狗と雄獅子2体、雌獅子1体による獅子踊りが舞われる。

凶作が行事の存続に関与した事例として注目されるまつりだ。

保野の祇園祭

23

信濃国分寺跡(しなのこくぶんじあと)

国史跡

天平13年(741年)の「国分寺建立の詔」により、信濃国分寺は上田に造られることとなり、770年頃には伽藍が整備されたと推定される。寺伝には、承平8年(938年)の平将門と平貞盛の戦いの際に兵火で焼失したとある。

昭和38年(1963年)から昭和46年に行われた発掘調査では、全国的にも稀な僧寺と尼寺が並ぶ伽藍配置と瓦、什器などの遺物が検出されるとともに、10世紀頃の衰退の痕跡をも確認するなど、大きな成果を残した。この結果を元に史跡公園として整備された。

寺域の東北隅の高台に鎮座する国分神社が、レイラインの起点となる。

信濃国分寺跡

24

信濃国分寺本堂(しなのこくぶんじほんどう)

長野県宝

天台宗の寺院で、本堂は薬師堂と呼ばれている。現在の信濃国分寺の境内は、天平の伽藍の北側の一段高い場所に、かつての僧寺と主軸線を合わせて整備されている。

万延元年(1860年)に竣工し、彫工は地元上沢村の竹内八十吉であり、龍や鳳凰の彫刻が見事である。

信濃国分寺本堂

25

信濃国分寺三重塔(しなのこくぶんじさんじゅうのとう)

国重文

寺伝では、建久8年(1197年)に源頼朝が善光寺参詣の帰途、寺の衰退を憂い、塔の復興を命じたという。建築様式から、室町時代に建立されたものと推定され、「和様」の外観は堂々と落ち着いた雰囲気を呈している。

第一層の大日如来が安置されている仏壇の鏡天井を囲む「如意頭文」は「禅宗様」の建物で用いられるもので、一層の内部は赤や緑の顔料で、鮮やかに塗られていた。

別所温泉の安楽寺八角三重塔とともに大日如来が安置されたふたつの塔は、レイラインの発着点を示す象徴とされたのかもしれない。

信濃国分寺三重塔の写真

26

信濃国分寺石造多宝塔(しなのこくぶんじせきぞうたほうとう)

市指定

高さ152cmと常楽寺のものに比べるとやや小振りであるが、各部の様式・手法などから鎌倉期の多宝塔とされる。常楽寺のものがレイラインの終着点に置かれた塔だとすると、こちらは起点とされた塔なのかもしれない。

屋根や塔身にある窪みは堅い石で叩いて粉にして飲むと病気が治るとか、お守りにすると良いという信仰の痕跡とみられる。

信濃国分寺石造多宝塔の写真

27

牛頭天王祭文(ごずてんのうさいもん)

市指定

信濃国分寺八日堂縁日(毎年1月8日)で頒布される「蘇民将来符」のいわれが記されている。この「祭文」の写しは全国で4通確認されているが、文明12年(1480年)に書写された国分寺のものが最古と判明した。

牛頭天王は薬師如来が姿を現したものとされ、厄病除けの神として信仰され、やがて息災延命、七難即滅などの諸々の御利益が付け加わりながら信仰されてきた。

牛頭天王祭文

28

上田市八日堂(うえだしようかどう)の

蘇民将来符頒布習俗(そみんしょうらいふはんぷしゅうぞく)

国選択無形

民俗文化財

「蘇民将来符」は厄除けのお守りで、家の戸口に掛けたり、神棚に供えられる。泥柳(ドロヤナギ)の木を手彫りした六角錐形の護符だ。

室町時代から制作されてきたといわれ、門前に家を構える人たちで作る「蘇民講」が重要な役割を果たしている。まず、師走の朔日に寺に集まり、木材から護符を「蘇民包丁」で切り出す「蘇民切り」を行う。

寺で頒ける護符には、住職が大福・長者・蘇民・将来・子孫・人也の文字と魔除けの紋様を、墨と朱で六面に交互に描く。また、蘇民講の面々は、文字とともに、家それぞれにオリジナルの七福神の絵姿を描いた護符を作って頒布する。

蘇民将来信仰は全国に見られるが、木製の護符を分けるところは少なく、蘇民講と寺の制作・頒布過程が他に見られない行事である。

蘇民将来符の写真

29

八日堂縁日図(ようかどうえんにちず)

市指定

描かれている信濃国分寺本堂の形状等から、江戸時代中期前半に描かれたものと推定され、写実的であり、当時の参詣風景等が分かる風俗史料として貴重である。

この図からは「蘇民将来符」が頒ける姿や、農業に必要な種子や農具、生活必需品、浮世絵等の嗜好品が商われている様子がうかがえ、当時の人々の暮らしと祈りの一端が垣間見える。

八日堂縁日図

30

泥宮(どろみや)

未指定

(建造物)

泥宮は字の如く「大地(泥)」を御神体とし、生島足島神社が創建された時に、遺霊をここに残したという。「泥宮」という呼称は寛政2年(1790年)以降とされ、それまでは「諏訪大明神」であった。

かつては生島足島神社の西鳥居とまっすぐな道で繋がっていたといい、御神体を同じくするこのふたつの神社は、深い関係があることを示す。

神社はレイラインを構成する、聖地のひとつとして親しまれている。

泥宮の写真

31

生島足島神社本殿内殿

(いくしまたるしまじんじゃほんでんないでん)

県宝建造物

平安初期にまとめられた「延喜式」に載る古社で、生島大神と足島大神を祭神とする。御神体は「大地」であり、日本列島の真ん中に鎮座する神だ。

寛政11年(1799年)に生島足島神社と社名を改めており、中世以降には「下之郷大明神」「諏訪法性大明神」などと呼ばれ、武田信玄や真田氏、歴代上田藩主の手厚い加護を受けた。

生島大神と足島大神を祀る神社は全国的にも珍しく、近畿地方を中心に数社しかなく、東日本では皇居内宮中三殿とここのみである。

太陽が夏至には東の鳥居の真ん中から上がり、冬至には西の鳥居の真ん中に沈むよう、鳥居が太陽の至点と一致するように配置されており、まさに「太陽」と「大地」を結ぶ神社だ。

境内には夫婦欅と呼ばれる樹齢800年を超えると推定される大木があり、良縁子宝等が祈願される。

生島足島神社本殿内殿

32

生島足島神社摂社諏訪社本殿

(いくしまたるしまじんじゃせっしゃすわしゃほんでん)

市指定

棟札から、慶長15年(1610年)に藩主・真田信之が建てたことが判明している。諏訪神を祭神とし、雨神や農耕神ともされ、神格が龍や蛇、神使は蛇とされる。ここでは蛙が禁忌の動物であり、本殿との間にある神池では毎年正月の1月15日に蛙狩神事が行われる。境内には大蛇が住んでいて、神池には蛙はいないとされる。なお、神池は日によって色が違って見えるという。

生島足島神社摂社諏訪社本殿

33

生島足島神社文書(いくしまたるしまじんじゃもんじょ)

国重文

武田信玄武将の起請文(83通)ほか信玄願文、真田信幸寄進状など11通、合計94通からなる古文書群。

信玄が配下の武将に、謀叛しないことを誓わせた起請文や、越後の上杉謙信との戦いにあたって勝利を祈願した願文からは、信濃攻略を果たした信玄が、上杉との本格決戦に向けて神の加護を得ようとした心中を察することができる史料だ。

武田信玄武将の起請文の写真

34

長福寺銅造菩薩立像(ちょうふくじどうぞうぼさつりゅうぞう)

国重文

長福寺「信州夢殿」の本尊として安置されている。アルカイックスマイルを特徴とする、像高36.7cmの小金銅仏で、7世紀後半の白鳳時代の作品と考えられる。

もとは上高井郡小布施町の旧家に伝わるものだったが、昭和13年(1938年)に長福寺に移された。

長福寺銅像菩薩立像の写真

35

別所線の鉄道施設(べっしょせんのてつどうしせつ)

未指定

(建造物)

蚕都上田を支えた鉄道網のうち、唯一現役なのが別所線。上田から別所温泉に至るこの路線は大正10年(1921年)に開通した。

電車が上田駅を発つと間もなく真っ赤な鉄橋を通って千曲川を渡る。この千曲川橋梁は、大正13年(1924年)の建設で、橋長は224m。橋桁はプラットトラス5連からなり、一番端の斜材(コリションストラット)を持っているのが特徴である。また、中塩田駅や別所温泉駅など、駅舎に近代の趣きを残す建物が多いことも特徴である。

別所線の上田駅から別所温泉駅まで11.6kmの軌道は、下之郷駅から大きく西に曲がり、終点の別所温泉駅までの軌道は、まるでレイラインに沿って夫神岳に向かっているように見える。

別所線の鉄道施設の写真
36 塩田平のため池群
(しおだだいらのためいけぐん)

未指定
(史跡)

雨の少ない塩田平での稲作において欠かすことのできないのが各地に点在するため池群である。古代から築造は進められてきたと考えられるが、仙石氏統治時代(1622年~1706年)に最も築造が行われ、最盛期は300以上もあったとされており、上田随一の穀倉地帯を支えた。

小規模なため池を含めた現在の総数は明らかではないが、塩田地域で名称や貯水量等が把握されているものだけでも41を数える。

 築造に伴う人柱や、水神としての河童の伝説が残り、雨乞い行事「百八手」が行われるなど、人びとの努力と信仰が現れる場所である。
ため池群写真

塩田平のため池群の詳細

令和4年7月29日に構成文化財に追加認定された「塩田平のため池群」は、全部で41個のため池で構成されています。

塩田平のため池群
整理番号 名称 概要

(1)

夫婦池
​(めおといけ)

慶長16 年(1611)築造。皿池。下之郷地区へ灌漑を行う。

(2)

瓢箪池
(ひょうたんいけ)

宝永6年(1709)築造。皿池。下之郷地区へ灌漑を行う。灌漑用水としての役割のほか、マダラヤンマ(市指定天然記念物)等の貴重な動植物が生息し、市民がくつろぐ広場としての役割も担う。

(3)

迎原下池
(むかえはらしもいけ)

正徳元年(1711)築造。下之郷地区へ灌漑を行う。

(4)

迎原上池
(むかえはらかみいけ)

元禄3年(1690)築造。皿池。下之郷地区へ灌漑を行う。

(5)

宮原上池
(みやはらかみいけ)

正徳元年(1711)築造。皿池。下之郷地区へ灌漑を行う。

(6)

鳥居上池
(とりいかみいけ)

寛永7年(1630)築造。皿池。下之郷地区へ灌漑を行う。生島足島神社の鳥居が付近にあったことから名づけられたと考えられる。

(7)

浅間池
(あさまいけ)

正徳元年(1771)築造(当時の名称は大吹池)。谷池。下之郷地区へ灌漑を行う。巨人「デラボッチ」の伝承が伝わる。

(8)

居守沢大池
(いもりざわおおいけ)

寛永7年(1630)築造。皿池。富士山地区へ灌漑を行う。

(9)

中池
(なかいけ)

寛永2年(1625)築造。皿池。下之郷地区へ灌漑を行う。

(10)

下之郷新池
(しものごうしんいけ)

寛永18年(1641)築造。皿池。下之郷地区へ灌漑を行う。

(11)

清水池
(しみずいけ)

文化元年(1818)に修復の記録が残る。皿池。古安曽地区等へ灌漑を行う。かつてはスケートリンクや鯉の養殖池として利用された。

(12)

久保池
(くぼいけ)

天正4年(1576)築造。皿池。富士山地区へ灌漑を行う。41のため池の中では最古とされる。かつてはスケートリンクや鯉の養殖池として利用された。

(13)

北ノ入池
(きたのいりいけ)

寛文3年(1663)築造。皿池。富士山地区へ灌漑を行う。沢山池に次ぐ規模で、東塩田地区への灌漑を行う。コウノトリが飛来したこともあるなど、貴重な動植物が生息する。かつては鯉の養殖が行われた。また、干ばつ時には千駄焚が行われた。

(14)

砂原池
(すなはらいけ)

正徳4年(1714)築造。谷池。富士山地区への灌漑を行う。マダラヤンマ(市指定天然記念物)等の貴重な動植物が生息している。かつては干ばつ時に千駄焚が行われた。

(15)

水沢池
(みずさわいけ)

正保4年(1647)築造(当時の名称は唐沢池)。谷池。富士山地区への灌漑を行う。「唐」が「空」に通じ、縁起が悪いことから水沢池に変更されたという伝承が伝わる。住民が水不足に対して非常に恐れていたことを表す伝承である。かつては干ばつ時に千駄焚が行われた。

(16)

来光寺池
(らいこうじいけ)

元和8年(1622)築造。皿池。古安曽地区等へ灌漑を行う。干ばつ時に石造の「大姥様(おおばさま)」を池に沈め、怒らせて降雨を願った伝承が伝わる。現在でも大姥様は地域で大切に守られている。また、百八手も行われていた。

(17)

手洗池
(てあらいいけ)

承応3年(1654)築造。谷池。古安曽地区等へ灌漑を行う。池の名は弘法大師空海や木曽義仲の家臣手塚太郎金刺光盛(てづかたろうかなさしみつもり)が池で手を清めたことに由来するとの伝承が伝わる。築造時には上田藩内から人が集められたと伝わる。

(18)

平井寺池
(ひらいじいけ)

昭和24年(1949)築造。谷池。古安曽地区への灌漑を行う。塩田平では最も新しいため池で、現代まで塩田平の住民が水の確保のため、ため池の築造を行っていたことを表している。

(19)

倉保根池
(くらほねいけ)

正保2年(1645)築造。皿池。本郷地区等への灌漑を行う。かつては鯉の養殖が盛んに行われた。

(20)

上原池
(うわはらいけ)

寛永14年(1637)増築の記録があり、それ以前からあったとされる。皿池。本郷地区等への灌漑を行う。村上義清に関わる伝承が伝わる。

(21)

小島大池
(こじまおおいけ)

元和8年(1622)の史料で名が確認でき、それ以前からあったとされる。皿池。小島地区へ灌漑を行う。徳川綱吉将軍時代にイノシシが溺死ししたという「小島大池のイノシシ騒動」が伝わる。

(22)

加古池
(かこいけ)

元禄17年(1704)築造。皿池。保野地区等への灌漑を行う。毎年蓮が咲くためかつては蓮根が地域の貴重な食料とされていた。現在でもお盆の「花市」用に購入する業者が数軒ある。

(23)

塩吹池
(しおふきいけ)

元禄15年(1702)改修の記録があり、それ以前からあったとされる。谷池。保野地区等への灌漑を行う。かつては保野塩野神社の手洗い池として利用された。晴天が2~3日続くと地面に塩が吹き出したことにより名付けられた。かつては干ばつ時に百八手が行われた。

(24)

女池
(おんないけ)

正保元年(1644)築造。皿池。男池と隣接しており、一部堤を共有している。産川より取水し、五加地区等へ灌漑を行う。

(25)

男池
(おとこいけ)

慶安2年(1649)築造。皿池。女池と隣接しており、男池の方が一回り大きく、一部堤を共有している。産川より取水し五加地区等へ灌漑を行う。

(26)

五加前池
(ごかまえいけ)

元和8年(1622)の史料で名が確認でき、それ以前からあったとされる。皿池。五加地区へ灌漑を行う。かつては鯉の養殖がおこなわれた。

(27)

共有池
(ともいけ)

元和8年(1622)築造。皿池。舞田地区等へ灌漑を行う。その形から「ハート池」とも呼ばれる。貴重な動植物が生息し、かつては鯉の養殖がおこなわれた。

(28)

上平池
(うわだいらいけ)

元和8年(1622)築造。谷池。舞田地区へ灌漑を行う。かつては鯉の養殖がおこなわれた。

(29)

中野前池
(なかのまえいけ)

寛永7年(1630)築造。皿池。中野地区等へ灌漑を行う。かつては干ばつ時に百八手が行われた。

(30)

甲田池
(こうだいけ)

元和8年(1622)の史料で名が確認でき、それ以前からあったとされる。皿池。十人地区等へ灌漑を行う。かつては干ばつ時に百八手が行われた。カッパ伝説も伝わる。

(31)

上窪池
(かみくぼいけ)

正保2年(1645)改修の記録があり、それ以前からあったとされる。皿池。本郷地区等への灌漑を行う。改修前は泥池と呼ばれ、池の西側には泥宮が鎮座する。かつて塩田地域の多くのため池で行われた鯉の養殖発祥の地である。干ばつ時には百八手も行われた。

(32)

荒池
(あらいけ)

安永10年(1781)増築の記録があり、それ以前からあったとされる。皿池。十人地区等へ灌漑を行う。かつては鯉の養殖が行われていた。

(33)

塩野池
(しおのいけ)

宝永元年(1704)築造。谷池。前山地区へ灌漑を行う。前山塩野神社の境内を流れる塩野川を水源としている。築造時には前山三頭獅子舞が奉納された。かつては干ばつ時に百八手が行われた。

(34)

沢山池
(さやまいけ)

昭和13年(1938)築造で、塩田平最大のため池。谷池。産川を水源とし、鞍が淵のすぐ上流に位置する。産川流域の農業用水確保のほか、水害対策としても大きな役割を負っている。

(35)

山田池
(やまだいけ)

元和8年(1622)の史料で名が確認でき、それ以前からあったとされる。谷池。八木沢地区等への灌漑を行う。江戸時代の修築時に上田藩主へ設計図を提出したところ、「大きな池にすると堤の決壊時に上田城やまちに甚大な被害が及ぶため1尺堤を低くするように」との指示があったとの伝承が伝わる。別所温泉から流れる湯川を水源とし、山田地区等へ灌漑を行う。かつてはスケート場や鯉の養殖池として利用された。

(36)

山田新池
(やまだしんいけ)

寛延3年(1750)築造。谷池。山田地区等へ灌漑を行う。

(37)

舌喰池
(したくいいけ)

元和8年(1622)改修の記録があり、それ以前からあったとされる。谷池。手塚地区へ灌漑を行う。池の築造時に人柱となった娘が舌をかみ身を投げた伝承が伝わり、池の名ともなっている。かつては鯉の養殖が行われていた。

(38)

不動池
(ふどういけ)

文政12年(1829)築造。谷池。「戌の満水」時に埋没した不動明王の仏像が築造時に掘り出されたことからその名がついたと伝わる。手塚地区へ灌漑を行う。かつては鯉の養殖が行われていた。

(39)

竜王下池
(りゅうおうしたいけ)

正徳元年(1711)築造。谷池。灌漑面積は7ha、満水面積は約1,220平方メートル。水をつかさどる女神である「弥都波能売神(みつはのめのかみ)」を祀る竜王社が脇に建つ竜王湧水を水源としていることからその名がついたと考えられる。手塚地区へ灌漑を行う。

(40)

上一池
(かみいちいけ)

築造等の記録は残っていないが、竜王湧水を水源とし、山田地区へ灌漑を行う。谷池。

(41)

幕宮池
(まくみやいけ)​

正徳5年(1715)築造。谷池。別所温泉地区等へ灌漑を行う。現在は水辺公園として整備され、市民・観光客の憩いの場として利用されている。