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木曽義仲関連人物紹介

更新日:2023年1月26日更新
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義仲を支えた3人の女性たち

○巴御前

義仲の妻の一人。
義仲を養育した中原兼遠の子で、樋口兼光と今井兼平の妹。義仲とともに戦った一騎当千の女武者として有名です。1184年義仲敗死の際にも共に戦場にいましたが、義仲に諭されて信濃に落ち延びました。その後は尼になったと伝えられています。
丸子地域には、尼僧となった巴御前がお歯黒を洗い落としたとされる、「巴御前お歯黒の池」が残っています。

 

○葵御前

義仲の妻の一人。『源平盛衰記』では巴御前と並んで「女将軍」と称されています。
水内郡の土豪栗田範覚の娘だといわれています。父範覚が戦いで義仲に助けられた縁で仕えることになったという葵御前ですが、俱利伽羅峠の合戦で討ち死にしました。

 

○山吹御前

義仲の妻の一人。
義仲が鎌倉勢に攻められて都落ちを余儀なくされた時、病気のため京に留まったとされています。

木曽義仲四天王

○今井四郎兼平

義仲を養育した中原兼遠の子で、兄は樋口兼光、妹は巴御前。義仲とともに戦い、勇名をとどろかせました。源義経・範頼との戦いの最後には主従二騎のみとなり、自害しようとする義仲を守り、身代わりに敵を防ぎました。義仲が討ち取られたのを知ると自刃をとげました。

 

○樋口次郎兼光

義仲を養育した中原兼遠の子で、弟は今井兼平、妹は巴御前。源行家を破り急追する途中で義仲が討ち死にしたことを知りました。義経の招きを受けますが、主君は義仲だけだと断り、斬首されました。

 

○根井小弥太行親(幸親)

楯六郎親忠の父で、佐久の武士。横田河原の合戦や俱利伽羅峠の合戦で義仲に従いました。義仲討ち死にの戦いで戦死しました。

 

○楯六郎親忠

根井小弥太行親の子。横田河原や俱利伽羅峠の合戦で戦功を立てました。義仲最期の戦いでは、義経軍と宇治川で戦って討ち死にしました。

義仲の長子・義高

○木曽義高(清水義高)

義仲の長子。
義仲と頼朝の対立を避けるために人質として鎌倉に送られました。頼朝の娘大姫が許嫁となりますが、義仲が討ち死にすると頼朝は義高を殺そうと考えます。それを知った大姫は義高を逃がそうとしましたが、逃げ切れずに捕まって殺されてしまいました。

義高は「清水冠者義高」とも呼ばれます。この「清水」は、【​正海清水】にちなむといわれています。

 

○海野小太郎幸氏

海野幸親の子。頼朝の人質として鎌倉へ行く義高に随行しました。
義仲が頼朝に敗れると自分が身代わりに寝床に入り、義高を鎌倉から逃がそうとしました。義高は捕まって殺されてしまいましたが、幸氏の勇気を称えた頼朝は幸氏を重用しました。義仲残党の保護にも尽力したといわれています。

真田幸村で有名な真田氏は幸氏の子孫です。

 

○大姫

頼朝の長女で、義仲の子義高の許嫁。義仲の死後、義高が殺されてしまいますが、大姫は義高への想いを貫き通して病死しました。

参考資料

「長野県歴史人物大事典」郷土出版社

「4コマでわかる平家物語の木曽義仲」まんが・文/西川かおり

「義仲・巴出世街道マップ」発行/「義仲・巴」広域連携推進会議

「広報まるこ」